数年後

 どれくらい経ってしまったのだろう。

 そして僕はどれほど変わってしまったのか、最早分からない。

 今こうやって海沿いを車でドライブしている。本当に僕は救われている。何に救われているかって、色々なことに。

 僕はずっと勝手だった。勝手に物事を決めつけて本当に最悪だった。でも、それが僕だから何か、ということは無い。それはそれで、それなのだから。

 手に持ったグラスをこちらに近づけながら李緒がほほ笑む。

 「お兄ちゃん、変な顔してるね。あ、あのさ。窓開けてくれない?私車内がこもってるの好きじゃないから、酔っちゃうのよ。」

 妙におばさんめいた口調で彼女はそう言う。そうか、もう李緒は30歳を超えたのか、分かり切っていたことをいま改めてふと思い起こす。

 「そうなのよ。だから嫌になるのよ。ねえ、お兄ちゃんもそう思わない?」

 李緒は何だかぷんすかと怒りをあらわにしている。何をそんなに怒っているのかはいまいち分からない。けれど彼女が感情豊かにクルクルと笑い生きていてくれるだけで僕は救われる。それだけのことに僕は救われている。

 「あ、それよりさ。お前今度結婚するんだろ?兄ちゃんも招待してくれよ、結婚式。」

 「嫌よ。私たちは結婚式はしないの。しないって決めたの。」

 「そうだったっけ、そうだったか。」

 「もう、とぼけないでよね。」

 すとんと椅子に腰を下ろし彼女は俯く。

 李緒はたまに、衝動的にこの車のような車中にいると、例えば洞窟などの暗闇に入ると、たまにこうやって体を動かし、深呼吸を繰り返す。

 「いやね。」

 彼女は苦笑いを浮かべそう言った。

 過去に、男に監禁された経験を持っている。李緒はそれ以来ふとした瞬間にとりとめもつかないような暗い顔を見せる。その姿を見ると、僕は反射的に李緒を抱きしめることに執心する。抱きしめると、グエェと可愛い声を出すのがとても愛らしい。

 僕には妹と弟がいて、でもどちらも僕の家族だ。たった唯一の家族、失えない。僕の両親は蒸発した。二人そろって消えてしまった。李緒が監禁された事件以来、ぱったりと姿を消してしまったのだった。

 こんな大変な状況の時に、とは思いもしたがよく考えれば李緒を捨てた彼らは正気では無かったのだと思う。ずっと正気などでは無くて、だからある日それが表に現れたのだろう、なんて思っていた。そうとしか解釈ができない、だから不可解な出来事だった。

 「僕、ちょっと車降りて飲み物買ってくるから、お前平気?一人で大丈夫なのか?

 ちょっと間をおいて、彼女は笑う。

 「平気です。何て、言ってみただけ。やっぱりまだ無理みたい、ごめんね。」

 「いや、定期的に聞くことにしてるんだ、お前の状況を知りたくてさ、なあ、無理なのに変なこと言って悪かったな。じゃあ、行ってくる。」

 彼女を車の外に出して僕は足早に店内へと走る。

 こういう時、僕はとにかく急いで商品を手に取りレジへと向かう。そうしないと何か悪いことが起こって、また僕たちは不幸になってしまうのだろうと、そういう類の胸騒ぎがいつもしてしまうからだ。

 「…李緒、待たせたね。買ってきたよ?お前ぶどうジュースでいいよな。好きだし。」

 少し曇った表情で腕を組み空を見ている李緒は僕の方を見て言った。

 「ああ、うん。ありがとう。じゃあ車もどろっか。」

 こんな些細なことでも彼女の中には傷が深く刺さっていて、どうすることもできないもどかしさに押しつぶされそうになってくる。

 なぜ僕は、この子がこんなに辛い目に合う前に助けてあげられなかったのだろうかって、いつも手を握り締めて黙り込む。その沈黙が起こると、李緒は多分それを察していて、僕の顔を見ながら笑いかける。

 テレビで女優として活躍していた子だから、とにかくその笑顔には麻薬のような効能があって、僕は途端に胸がいたくなる。苦しくなる。だから、僕はまた李緒のことを抱きしめる。こうしていれば僕らは、恋人なんかじゃなくても救われるから。

 「ねえ、目方さんのこと覚えてる?」

 李緒が突然そう聞くから、「え、うん。確か僕の職場で働いてた人だけど、彼とはあんまり関わりなかったし、でも李緒の知り合いなんだってね。辞める前に聞いたよ。」

 「そう。でね、目方さんね、実は私のお母さんに頼まれて私のこと見てたんだって。見て、様子を報告してたんだって。」

 「え?」

 いろいろ言ったけど、話の流れが掴めない。どういうことなのだ、一体。

 「前ね、私小出に監禁されたでしょ?それでね、お母さん、あ。副島京子さんっていうの。その人がね、私に会いたいから、というか会えなくてもいいから気になって仕方が無くて、お兄ちゃんと同じ職場の目方君に何か私に関する情報を得られないかって話していたらしいの。」

 それって、つまり李緒の本当のお母さんの話ってこと?それって。

 「お母さんはね、私を捨てたんだって。私記憶があんまりないんだけど、だって幼かったから。何かお母さんて言う存在は知ってたけど、写真も情報も無くて誰かってことは分からなかった。私のお母さんは、副島さんはお兄ちゃんのお父さん、未波理津って人と恋仲だったんだってね。それで、でも本妻がいて、あ、お兄ちゃんのお母さんね、ごめん。」

 「いや、いいよ。続けて…。」

 「うん、ごめんね。だからね、不倫だったの。それが辛くて、お父さんに私を押し付けて逃げたんだって、でも。お父さんはお兄ちゃんのお母さんがもちろん嫌がるってことも分からずに、勝手に連れてきちゃって、だから、私要らない子になって親戚に預けられて、捨てられたの。」

 涙が落ちる。雫がぽとりと、垂れていた。

 「そんなつもりじゃなかったのに、自分のことを話すといつも悲しいの。辛くなって、泣いてしまうのよ。」

 ああ、そうだ。李緒はこういう子だった。感情が豊かで、とても繊細なんだ。感情を削減して誰かと向き合うということができずに、いつも傷ついてしまうのだ。

 「つまりあの目方ってやつ、僕のことをずっと観察して、でその後に李緒のことも見つけ出して様子を探ってったって事なのか?」

 「そうみたい。私ね、あったの。副島さんにね、会ったの。でもね、あの人何も言えないで震えてた。本当に震えたいのは私の方よ、でもそういう姿を見ると私も何も言えなくなる。だからただ黙るしかない。で、場が辛くなって笑っちゃった。そしたら、何か、あのね。副島さんがね、ごめんねって、抱きしめてくれたの。」

 李緒は、笑っていた。でもその目はどこか焦点が合っていなくて、虚ろだった。でも、彼女は至極まともな顔でこう続けた。

 「それから、私副島さんとは親しいの。本当の親子でも、そうはなれない。どうしてもなれないの。でもね、私は友達みたいな感じで接することだけはできて、今はそういう関係なの。」

 「そう…なんだ。知らなかったよ。本当のお母さん、良かったな。」

 「まあね、良かったといえば良かった。」

 何と言えばいいのかは分からない、けれど彼女の瞳にはいつもと違う何らかの意志が宿っていて、それは僕の知るものでは無かった。 

 今度結婚するなんて、言っていた李緒のことはいつもより大人びて感じられた。この子は、知らない間にもう大人になっていたのだ。きっと子供だったのは僕の方で、だから李緒のことがいつもとは違う感覚で見てしまったのだろうと思っていた。

 李緒の結婚相手は、小出郡司だ。

 李緒は結局、あいつと離れることなどできなかった。

 でも、それがいいのか悪いのかなんて僕には分からない、分かるはずがない、決めることなどできないのだから。

 あの事件以来、小出郡司は世間から姿をくらました。

 だけど、ある日僕の元へとあいつはやってきた。

 その姿は、何とも言えない程小ぎれいだった。そして隣にいた李緒は笑っていた。もう殴られることも無いと言っていたし、私たちは離れられないのだと語っていた。

 僕にはもちろん理解などできない。でも、でも。

 幸せなら、いい。

 それで、いい。

 僕はただそう思うんだ。

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