お兄ちゃん。

 たまに呟くこの言葉は私にとってのおまじないなのだ。

 呟けば、何か救われるようなそんな言葉、だけどずっと一人だったから、私はずっと一人ぼっちだったのだから、彼のことを好きになってしまったのだと思う。

 彼は私にとっての初恋で、そして悪魔になる男なのに私は何も知らずに何も分からずにズルズルとのめり込んでいったのだった。

 「なあ、李緒はどうして私の前だといつも黙ってるの?」

 何気なく聞かれた一言だった。

 この人とはドラマの撮影で一緒になって、たまたま休憩時間が重なって仕方なく会話を交わすことにした。彼は黙っていたけど、私は年下で後輩なのだから気を使わないといけないと思い何でもいいからと声を出した。

 それで何か仲良くなって、波長が合うというのだろうか、とても馴染みやすい人だなあと思っていた。最初の近寄りがたい印象からは、だからかけ離れているように感じてしまっていたのだ。

 「別に、黙ってないよ。郡司さん、全然喋らないじゃん。だから私も話さなくていいかなと思ってさ。」

 「他の人の前だとすごく喋るから、疑問だったんだ。何で私にだけ李緒は話しかけないのかなって。」

 「嫌なら話すけど、良いんでしょ?」

 「まあね。」

 彼との会話はいつもこんな感じで、素っ気なかった。けれどなぜだか居心地が良くて愛おしかった。私は、やっぱり恋をしていた。

 はずなのに、なぜだろう。いつからこうなってしまったのだろう。私にそれが分からないということは、きっと私の関与しない何かが彼を変えてしまったのだろうと思っている。

 彼は苦しそうにこう言うのだった。

 「李緒、李緒。」

 表情は歪み、興奮していて怖い。けれど私は彼の頭を撫でさすった。震えているから、だからこんなことをされても仕方なく、私はそうしてしまうのだから。

 彼はとても可哀そうな人だった、典型的な不幸な人で私はそれがとても気にかかった。こんな奇特な人に恋をしたのは、この人を救いたいと思ったのは、きっと私の運命のようなものであって、それに飲み込まれてしまうことを望んでいた。

 初めてだった、こんなに強い感情を抱いたのは、本当に初めてだったのだ。

 でもある日、彼は突然私を殴った。

 私は訳が分からなかった。そしてとても怖かった。理屈が分からないということがこれほど人を恐怖に陥れるのだと思い知らされたのはこのことだけかもしれない。大好きで大事でどうしようもない人に、ある日殴られてしまった。

 けれどその直後には全部どうでも良くなっていて、私はそれでもこの人のことを一切嫌いになどなっていないのだった。嫌いになることなど、できなかったのだ。

 そんな日々がしばらく続いて、気が付けば私は郡司に監禁されていた。世間では女優としての私は死んだことになっていると彼から聞かされた。私は「解放してくれないのは、何で?」と彼に尋ねた。彼は、「逃げないで欲しいから。」とだけ言った。私を殴り、殴り、その後正気を取り戻したかのような郡司は、でも私をこの状況から出してやろうという発想は浮かばないようなのだった。

 ずっとそうしていると、昔のことを思い出す。少しだけ兄弟だった二人。お兄ちゃん。その瞬間、私は思った。このどうしようもない沼のような状況から出よう、と思った。そのために、兄に手紙を出してみてはどうだろうかと考えた。彼らならきっと助けてくれるのかもしれない、という不思議な確信があった。

 実は、父親から聞いたことがあって、まあ父親といっても彼らの父親であって私の父親ではもう無いのだけれど、一応血が繋がっているから私はたまに連絡を取り合っていた。だから知っているのだ。兄たちがどこに住んでいるのかを、私が思い出してお兄ちゃんたちはどこに住んでいるのかなあ、なんて言ったら事細かに教えてくれたのだ。それはすべて私の日記に刻まれている。日記を書くことは私の習慣で、それだけはなぜか郡司は許してくれる。

 そうだ、確か言っていた。

 「お前にとって救いになるのなら、良いよ。」と。

 そして至ってまともな顔で、「ごめん。」とも言っていた。

 その辛そうな横顔がまた私をこの部屋に縛り付けてしまうのだが、それでも今はお兄ちゃんたちに手紙を出そう。やってみよう、何かが変わるのかもしれないし、そう思っていた。

 書いてみるとこの監禁生活の中で自分がいかに苦しかったのかということが分かってしまった。分かってしまうと辛くて、惨めで死にたくなってしまった。だけど、決めたのだ、この手紙を送り届けようと決めたのだから、私は実行した。

 郡司が郵便物をまとめてポストに入れる習慣があることを私は知っている。それに忍ばせようと思いついたのだった。

 彼が誘拐され監禁状態になっていた頃、そこから現実の世界に馴染むためには時間が必要だったと聞いた。何気なく話してくれたのだが、話すたびに顔がゆがむことを私は見逃さなかった。その度に、私の心は激しく動き回り彼を抱きしめた。彼はただそれを受け入れていた。その関係のままでいれたらよかったのに、結局私たちはこうやって壊れていくしか無かったのだ。

 それはとても、虚しいことだった。

 それで社会への復帰のために世話をしてくれた人に毎月手紙を出している彼は、とても誠実な顔をしていた。毎月といっても一か月の間にため込んだ何通もの手紙を一度にまとめて送るのだ。読む方も大変なんじゃないかと思うのだが、その人は郡司にありがとう、と言って受け取り電話をよこすらしい。とても、良い人なのだなと感じた。

 私はだから、その手紙に私の郵便物を紛れ込ませた。

 私の希望、絶望の中の少しの希望、届くかどうかはどうでも良くて、ただ少しだけ何かがあれば私はただ生きていることができる。今はそう強く思っている。

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