「京子、遅刻するわよ。そんなにチンタラしてるとあなた、怠け者になるのよ?プー太郎になってもいいのかしら。」

 また相変わらず私の母親は意味不明なことを口走っている。朝から、体に毒だ。私の母親は、おかしいのだろうか。けれど母は大きい企業で総合職として働いている。給料は、父よりもはるかにもらっているのだから。

 「分かった。行くから。」

 でも、と思う。私はこんなに早くから起きているのに、なぜ出勤の早い母に会わせなくてはならないのかと疑問に思う。早く起きすぎて、早く家から追い出されて私は、時間を川原で潰すしかない。

 どこのリストラ直後のサラリーマンだよ、と心の中でいつもツッコんでいる。

 今は6時、普通の高校生ならまだぐうぐうと寝息を立てている頃だろう。けれど母は6時半には家を出る。私も一緒に家を出る。母一人子一人の家庭なら分かる。けれど私には元気な両親がちゃんといて、でもこの家の実権を握っているのは母で、父も私も母に合わせて家を出るしか無かったのだ。

 「お父さん…。」

 隣を歩く父の背中は丸かった。頭も後退してきていて、でも私は父が大好きなのだ。

 弱弱しく笑うその顔も、母とは対照的に物をはっきりと言わない、言えないその優しさも、全部が好きで仕方が無かった。

 「あのな、京子。」

 母はとっとと先に行ってしまっていて、私たち二人はちんたらと今日一日の始まりまでのこの無意味な時間を潰すことに執心している。

 「何、言っていいよ。」

 先を促さないと、この人は話し出すことすらためらうのだ。母に対しても、私に対しても、必ずそうする。私はとても、もどかしい。

 「じゃあ…うん。あのな、お前お母さんにもう合わせなくていいんだぞ?だってキツイだろ?こんなに早く起こされて、学校までの時間をぼんやりと過ごすだなんて…。」

 いつも自己主張しないはずの父が、いつもよりずっと強い口調で顔を歪めながらそう言った。

 だから、私。

 「ありがとう。でも平気なの。大変なのは、お父さんもでしょ?それにね、私お父さんとこうして誰にも見られない時間帯に一緒に外を出歩くのが好きなの。同級生とか出くわしたらからかわれるだろうけど、今の時間ならその心配もない。ね?」

 本音だった。私はそれ程父が好きだった。母、との比較のせいなのだろうか、私は本当に、切実なまでに父のことが大好きだった。

 

 学校は公立の所で、家から近く中学からの同級生も多くいた。その中で一番仲が良かったのが、理津りつだ。

 「疲れた顔してるね。またたたき起こされたんでしょ。いつも大変だよね。」

 理津はよく分かっている。小学生の頃から仲良しで、母のえげつなさもよく知っていた。

 理津が家に遊びに来た時に、母は理津に足を洗わせ、手を入念に洗わせ、他人の子供なのに飼っているペットのような扱いをしていた。

 私は理津に悪くて、でもどうしようにも母に逆らえない自分がいて、泣きそうだった。けれど、理津は言った。

 「へえ、京子の家変わってんね。まあいろんな家があるってことは分かるし、でも大変じゃないか、お前が。」

 初めて、理解されたと思った。なぜ小学生の理津がそんなに物分かりが良いのかは分からなかったが、とにかく理津は私を拒絶してはいないようだった。

 咄嗟に、「ありがとう。」と言ってしまった。

 そしたら理津はニカっとはにかみ私の頭を撫でていた。

 「理津…理津。」

 私は泣いていた。

 その頃からずっとこうだった。気が付けば優しい言葉をかけてくれる理津の胸に寄りかかって、泣きじゃくっていた。

 「………。」

 何も言わずに私の頭を撫でてくれるのは、昔から変わっていない。

 理津は高校の中でもモテていた。顔は普通だけど、雰囲気っていうのかな、すらっとした体に低い声、飛び出たのどぼとけ、イケメンの要件をだからほかで満たしていた。かくいう私はまったくそういうものとは無縁で、だから高校に入ってからは理津とは距離を置くようにしている。具体的には同じクラスなのだけど、そこで話しかけてきたら一切答えない。のに、

 「よう、学校終わり?」

 部活に入っていない私に理津はそう声をかけた。理津は陸上部で、とにかく足が速かった。そんな姿を視界に収めることすら煩わしかった。

 私は辛い時に、理津にもたれ掛かり泣く。理津はそれを何も言わずに受け入れる。たまに笑ったりはするけど、その瞬間の理津はいつもの何十倍も真剣に見えていた。

 だからだよ。だから私は、理津を避けるのだ。

 「京子が避けてたっていいよ。俺は平気だから。京子が嫌だっていうならそうするし、でも違うだろ?クラスの奴らにからかわれるのは俺でも嫌だよ。」

 つまり、理津は私のことが好きなのだ。そんなこと言わなくても分かるだろうという様な態度でいつも接してくるのだから。

 だから、私は、理津にはもう頼りたくない。

 友達もいなくて、一人ぼっちで、でも理津だけはいつも一緒に居てくれて、その状況に私は違和感を感じ始めている。社会の中で理津だけが味方だなんて、きっとおかしい。理津は良くても、私は良くない。私はこのままじゃ、理津という麻薬に飲み込まれてしまう、その様な危機感を漠然と抱いていた。

 

 「副島京子さんね。可愛いね。」

 応募したバイト先は地元のスーパーだった。人も多いし、多ければ多い程人間関係も希薄なのかもしれないと思い、私はこの場所を選んだ。

 そして、

 「じゃあ、採用ね。明日から来て。細かいことは経理の人から聞いてよ。」

 店長は驚くほどあっさりと何の害もなさそうな私を採用してくれた。

 私は、これで少し理津と離れることができるのかもしれないと期待を抱いた。

 「副島さん、これお願い。」

 「分かりました今やります。」

 思うよりも私は仕事の適性があるようだった。こまごまとしたことも周りの人たちよりも素早くこなせているようだった。

 そうやって半年が過ぎると、私はすっかり理津のことをしばらく考えないようになっていた。

 そう思っていた。

 てな。」

 「マジか。何も言わなかったもんな、あいつ。」

 「何か家の事情で、母ちゃんが死んじまったって…。」

 「やばいな。それで?」

 「父ちゃんもいなくなったからってことだって。」

 夏休みが開けると理津はいなくなっていた。 

 少し人と打ち解けられるようになってきていた私が人に聞いたところ、理津は元々お母さんを支えながら暮らしていて、お母さんは体が弱くてあまり外で働けなくて、じりじりと貧乏に耐えながら暮らしていたらしい。それでも理津にはバイトをさせたくない、部活をして欲しいということで、陸上を続けていた。

 父親は、お金もあまり渡さず、家庭を持っているという自覚が薄かったということで、理津の母親が亡くなってあっさりと逃げた、ということだった。

 聞いた話を、反芻する。

 はあ、そうなのか、とため息が漏れた。

 私は理津のことを何も知らなかった。理津の優しさは無条件で、というか要領の良い彼のことだからこんなどうしようもない私を気にかけてくれるのはボランティアかなんか、とにかく余った余剰エネルギーを費やしてくれているのだと勝手に思っていた。

 けれど、実際はじり貧に減らされたエネルギーをそぎ落とすように私に分けていたのか、そう思うと涙かこぼれる。

 悔しい、ごめん。私が勝手でごめん。

 頭の中ではいくつもの言葉が反芻しているが、どれも意味を成さないようで、ただ空しかった。

 理津がどこに行ったのか、探そうとは思ったけれど、止めた。理津が言わなかったのだ、つまりそういうことなのだ。私はそう結論を下し考えることを止めた。

 そして気付かない内に学校は辞めていた。

 退学処分というか、在籍日数が少なすぎてそうなった。でも私には全部、どうでも良かった。

 私は救われないのだ、とぼんやりと思ったことを記憶している。

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