こんな悪い心地でいられるか、そう思った。

 俺はいつにもまして荒れ狂っていた。でも手元はいつも正確で、だから誰の目にも付かないのだった。今日は役所の周りが汚いという要望に応えるために俺が雑用を買って出た。みな、何も言わずに頷いていた。

 本当に、この人たちには俺という存在が分かっているのだろうか。それとも見たくないような存在には徹底的に意識を働かせないという取り決めでもあるのだろうか。たまにそんなことを考えている。それ程俺の存在感は薄く、希薄だった。

 でもいい、むしろその方が良い。

 俺には秘密がある。誰にも知られたくないし、知られてはいけないことなのだから。

 女のこと、強いて敢えて言葉にするのなら、そういうことだけど、はっきりとは言わない。というか言えない。

 あいつは何だったのだろう。でも俺はあいつのことを忘れ去ることなんてできない。増して、何の罪悪も抱かずに、人を虐げておきながら朗らかな安らかな顔をして生きているあの人が俺には理解できなかった。

 初めて見た瞬間、固まった。

 あの害のない綺麗な笑顔が、怖かった。

 

 俺が、大学生の頃だった。

 美術部という中高でしか無いような地味部活に俺は入部した。サークルというより、大人になることのできなかった人間が寄せ集まっているだけのような気がしていた。俺は、だからなぜそんな部活に入ったかというと、本当はラグビー部に入りたかったからなのだ。体格が良くて性格も明るかった。人からは好かれるし人気があった。もちろん女子からも、でもある女が俺の元へとやってきた。その女は俺に包丁を向け死ねと言い、暴れ回った。結果、彼女は警察へと連行され俺はぼんやりと立ちすくむしかなかった。別の人間から聞いた話によると、あの子は不安定で危うかった、と言っていた。何がどう危ういのかは分からなかったが、とにかく俺はその女のことを憎むことができなかった。なぜか、は分からない。

 けれど俺の中にはそれ以降、漠然とした澱みのようなものが生まれ、何も手につかなくなっていた。だから、何もしなくてもいいと聞いた美術部に入ることにした。家でごろりとしていればいい話だったのだが、先行きを考え何もしないのは良くないと断定し、決めた。

 美術部には誰もいなかった。唯一いた小説を読んで俺の存在に全く気付いていない風の眼鏡女に尋ねた。

 「あの…俺新入者しんにゅうもので、でも誰もいないからどうすればいいか分からなくて…。」思ったことをそのまま尋ねた。はずなのに、その女はこう言った。

 「え、あの。私分からないです。もうすぐしたら他の人来ると思うので、待っていてください。」

 思いついたことをそのまま口にされてしまった。というかあまりにもコミュニケーションが雑で、多分苦手なのだろうという感じがよく伝わってきていた。けれど、彼女の他にはその日誰も現れなかった。

 思う、俺は結局こういう人間なのだと。こんなに待たされているのに見切りをつけて外へ出て行くことができないで、ただじっと何かが起こるのを待っている。その間に全身の筋肉は固く凝り固まり、だが俺にはそんなことにさえアンテナを張る気力も残っていなかった。

 帰宅すると、全身を意味不明な緊張感が満たしていた。大学に入ったのに、あの包丁突き立て事件以来友人とも会わなくなった。そして、必然的にいつも一人ぼっちだった。

 だから近所のスーパーでバイトをすることに決めた。バイトをしてしまえばこの余った時間をどうにかすることができるだろう、そう思った。

 アパートから歩いて5分程だったので快適な場所にあるそのスーパーはいつも賑わっていた。客が日中もずっと途切れることが無く、噂によるとテレビで紹介されたローカル激安スーパーだということで、でも商品は特に代わり映えもなく、仕入れ値の安い商品ばかり値下げして利潤はしっかりとたんまりと稼いでいた。メーカーにこんなに安い値段で売って怒られないのかと思ったが、いまだにクレームが来たことは無いという。

 まあ、なにぶんここは田舎だから、それも仕方が無いのだろうと思う。

 ここは、地方の大学で、少しレベルは高かったが所詮程度は知れていて、でもバイトに応募すればそこの学生だということで、即採用される。そんな所だった。

 転機はそこに古くからいるパートのおばさんとの関係から始まった。

 彼女は副島さんと言って綺麗な顔立ちをした主婦だと言っていた。主婦、なのだろうか、と俺は初対面にして訝しんだ。あの人はとにかくおかしかった。おかしいくらい綺麗でまぶしかった。特に快活で明るいという訳でもなかったのに、逆にそれが味を出していて染み込んでくる様な魅力を感じていた。

 「副島さん、もう終わりですか?」

 彼女が俺の目を見ないことは分かっていた。もちろん最初は傷ついていた。けれど次第にどうでも良くなった。この人は、そういう人。そう思えば何も頓着することなど無いと分かったからだった。

 だがその日、その質問に彼女は答えた。

 いつもとは全く違う調子で、こう言ったのだ。

 「ねえ、目方めがた君。どうして女って泣くんだと思う?」

 何言ってんだコイツ、と思った。けれど彼女のその美しさにには歯が立たず俺は単純に思いついたことだけを返してやった。

 「俺の質問は飛んじゃったんですけど、そうですね。俺の元カノは泣きまくってました。別れたくないって、他の男と付き合っているのはそいつなのに、別れたくないって泣いてたなあ。」

 昔のことだ。

 高校生の頃付き合っていた学年一可愛いと言われる程のその女は、俺と付き合いながらも別の男とも親しくしていたらしい。でも良かった。それを知った瞬間、俺が彼女の家を訪ねたその時その浮気野郎と鉢合わせて、だからその瞬間、俺は悟った。

 だってコイツのことそんなに好きじゃなかったってこと、最初は好きという感情だけは持っていたような気もするが、何か切実な程の思いまでは抱いていなかったような気がする。

 だからこれはきっと偽物なのだと決めつけ、終わりにした。

 「まあね。目方君はモテそうだもんね。私ね、実はね。子供を捨てたの。」

 「え、何ですって?」

 急にこの人はいったい何を話し出すつもりなのか、全く読めない。何を俺に伝えようとしているのか、考え付かない。何だ?何なんだ?それだけが俺の中で渦巻く思いだった。

 「………。」

 彼女は笑った。眉をしかめて薄っすらとぎこちなく、笑っていた。

 「聞きますよ。言いたいなら、言ってください。」

 俺は観念した。仕方が無い、俺はこの女に魅力を感じてしまっているのだから、もう諦めよう、そう決めた。

 「じゃあ、話すわ。」

 やけにあっさりと引き受けてしまっていた。この女はやっぱりおかしいのではないか、と思い始めていた。

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