ぼんやりと海を眺める。
私にとってはそれが贅沢で贅沢で仕方が無かった。
この町の人々は誰もそんなことを思っている様子が無かったけれど、私は違った。ずっと家しかない場所に住んでいて、私はそこに馴染むことができなくて、だから今ここにいることが信じられない、そう思っていた。
「志路さん。あなたって、
顔を真っ赤に染め、初対面の私に向かって話しかけるこの人は、同じ制服を着た男だった。多分、今度私が転校することになった高校の人なのだろうと思う。
「そうです。」
なるべく淡白に、努めてそう答えた。けれど、
「やっぱり?実は噂で聞いていて、ごめん。俺、父親が役場で働いていて、そういう噂先取りして知っちゃうんだ。だからあいつといるとめんどくさいって同級生に避けられたこともあるんだけど…はは。」
田舎あるあるの様な話を私に聞かせ、困ったように笑うその顔が印象に残った。私はその後知ってしまった。そうやって眉をハの字にし、眉間にしわを寄せ笑う男が私の琴線をくすぐるということを、知ってしまった。
彼は、五朗という。
田中五郎。その当時でも五朗なんて珍しい名前だった。だから聞いた瞬間、私は全力で顔を歪ませてしまった。
だって、五朗って。
強そうな名前なのに、すごく濃ゆい名前なのに。
彼は鉛筆のようにほっそりとしていて、肌が透き通るように白かった。
つまり、
「ごめん、笑ちゃった。」
確かに申し訳ないことをしたなと思っていたから、しっかりと謝った。
それに対して彼は、「いいよ。俺もそういうの分かってるから。名前負けしてるんだよね。背え高くて真っ白で、それで五朗って、似合わないよ。俺もそう思う。」
いつも言われ慣れているかのように、彼はいつも何かを諦めているかのように、そう言って私にあの困り顔で笑いかけた。
「五朗。最近職場に若い子がいるんだけどね、五朗の若い頃に少し似てるの。」
「へええ。イケメン?」
さらっと自分がイケメンであることを彼はほのめかす。そういう所が好きだった。
好きって、不思議な感情だと思う。別にどうでもいい人のはずだったのに、私は離れることができない。最初からずっと彼のことを見続けるしかない。そう、今もずっと。
「うん、イケメン。ってか細くて今風なんだけど、性格が古風。」
「それ、変な奴だな。チャラいってことじゃないんでしょ?真面目君?」
「真面目君。だけどすごくふわっとしていてサラッとしていて、不潔感が一切ない。だから女の子にモテていいはずなのに、実際モテてはいるんだけど、付き合うってところまでは行かないようなのよね。」
「そうか…。」
五朗と私はもう40代を迎えてしまった。しかし、子供はいない。私は五朗の子供がすごく欲しくて、なのに私たちの間には子供ができなかった。当たり前だと信じていたことが、できなかった。できて当然だと思われていることが、何も無かったのだ。
当時はすごく無力な状態で、苦しかった。
私だけだと思っていた。けれど、寝室で急に泣き出す五朗を見て、同じだったのだと胸が痛くなった。私達は、離れることができない。きっと死ぬまで永遠に、それが良いことなのかどうなのかは全く分からないけれど、とにかく私は五朗を愛している。
多分、五朗も私を愛している。
「でね、女の子がね。最近私の課によく来るの。未波君はいないって言ってるのに、ずっと待ってるっていうの。でも、未波君はさっさといなくなってしまうから、中々交流は持てていないようなの。」
何気なく話した話題は、最近よく職場に現れる隣の課の女の子だった。この子は、どこかがおかしい。だってずっと未波君を待ってるなんて、おかしいじゃない。
気になっているけれどむやみに噂は立てられないからこういう話は夫へと流す。そうやって私は自分の中身を整えていく。
「まあな。若い子って結構向こう見ずだから、分かってないことがいっぱいあって間違いも多いんじゃないの?でも、その未波くんって子、そんなにイケメンなの?女の子を引き寄せるというか…。」
「そうね。五朗と似てる。なぜかモテちゃうのよ。」
「俺似か…。」
いつもくだらない話題を二人で咀嚼する。それだけで私は今日、救われたような心地になる。みんな、突っ張っていないで、手を伸ばして誰かを求めればいいのに、狭い自らの世界が全てだと思い込んで生きているのかもしれないなんて、馬鹿らしいことを考える。五朗が強く抱きしめてくれるこの腕の中で、私はそうやってまどろんでいる。
母は志路悠紀といって、まあそこそこ有名な女優だった。この田舎の街では知らない人はいなかった。だって、この町をモデルにした映画、『あなたとの距離』を独占していた人だから。最初はそんなにヒットしなかったらしいのだが、だんだんと深みにハマるような人間が続出し、母は無名だったのに一躍著名人と化すことができたという。
しかし母自身は何か、強い何かを持って映画に出演していたわけではないので、さっさとその時に共演した20個上の俳優と結婚をしてしまい、最早この町以外ではほとんど誰も知らないただのおばさんだった。
だけど、私がこの町へ来る前、私はそのことを知られてしまった。
母はとても穏やかで可愛くて、母親としてしっかりと私を愛してくれたのだと思う。それはもちろん父も、そうだった。はずなのに、父は突然いなくなってしまった。死んでしまったのだ。大好きだった、だから苦しかった。行かないでと、病室でボロボロと涙を流した覚えもある。とにかく、思春期の私は嫌なことばかりで、今もその頃の感覚がいまいち薄くて、だからなのだろうか、友達もあまりいない。
父が死んで、私たちはこの町へと向かうことになった。
母が、ここが良いと言って聞かないから仕方なく、私も来ることになってしまった。
本当は、でも。それは建前なのだ。
私は、『あなたとの距離』に出演する母親のエロシーンを、濡れ場を、同級生の男子に知られてしまった。それから、私はなぜだかいじめに遭い、そういう話、その様な話が怖くて、手が震えるようになってしまった。少しでも男の子と二人きりのような状態になると、体が硬直して涙がこぼれた。
けれど、夫は違った。五朗は、私を受け入れてくれた。
私たちは初々しい高校生の頃に知り合ったはずだったのだが、それからお互い色々な人と付き合っては別れた。だから私はその過程で自分の中にある、どうしようもないものの存在に気付かされて、それを抱きしめてくれると言った彼を好きになった。
もしかしたら最初から好きだったのかもしれない、けれどそれは分からない。とにかく私は五朗じゃなければ、五朗がいなければ、生きられない。そう思っていた。
映画の中で、母は泣き叫んでいた。今の姿からは想像もつかない程、卑しかった。けれど、私は全部忘れてしまったのだ。本当に、思い出そうとしてもそういう言葉での感想だけが浮かんで、実際の映像は一切思い浮かばない。私は、やっぱりどこかがおかしいのかもしれない。けれど、平気。私は平気。大丈夫、大丈夫なはず。そう自分に言い聞かせて、毎日夜には少しだけ泣いてしまう。なぜだかは、分からない。
私たち夫婦はそうやって年を過ごした。やり過ごした、といった方が適切なのかもしれない。その間にはいろいろなことがあって、まず私の母親は死んだ。
自殺だった。
私の母親のファンだと言っていた五朗は、泣いた。私よりずっと泣きじゃくっていた。あまりにも子供のように泣きまくるから私は背中をポンポンと叩いてあげた。その奇妙な関係に、私は少し笑ってしまったのだが、五朗は私を抱きしめてくれた。その日の夜、母が自殺したと知って火葬が行われた日の夜、私と五朗は今までにない程抱きしめ合った。つぶれてしまうのではないかと思う程、五朗は乱れていた。だけどその苦しそうな姿がなぜか私を幸福な気持ちにさせていた。
私は、五朗に愛されている。
20代で両親を失い、おまけに母親は自殺で、絶望、という言葉が身に染みてしまった。染みついて、取れなかった。頑張って笑おうとしても、出来ていなかったようだった。私は笑顔を貼り付けて会社に通っていたはずなのに、だんだんと居場所がなくなって行って出て行かざるを負えないようになっていた。
今思うと、うつ病のような状態だったのかもしれない。
しかしその当時はそういうことに無知で、でもなんとか外に出ることはできるようになったんだけど、以前のようにはなれなかった。どんなに頑張っても、どこかが壊れてしまった機械のように、何かがおかしかった。
でも、今は町の役所に勤めている。
私のこの生真面目な性質が良かったらしく、後志路公子のファンだというおっさんの後押しもあったらしく、私は晴れて就職するに至った。
五朗は、そんな私を捨てなかった。
なぜだろう、こんな絶望的な女、早く捨て去ってしまえばいいのに、ねえ、そうしてよ。私は良いの、一人っきりでも、仕方が無いの。だから、無理して一緒に居るなんて、辞めてよ。そんなの嫌!
そんな言葉を吐きまくっていた時期がある。
愛想をつかされて当然だ、私ならとっとと距離を置くだろう。けれど、でも私は分かっていた。五朗は私を見捨てないってこと、私たちはその位強いきずなで結ばれていて、それは絶対的なもので壊れてしまうことなど無いのだと、確信していた。
思い込んでいた。そうやって、私は私を保っていた。
だから、
「ごめん。いつもごめん。」
今日二人で結婚記念日だからって着飾って、町一番のレストランへとやってきた。高いから、町の人というより、県外からの客でにぎわっている。
「何なの?急に。驚くよ。」
五朗の好きなチキンのソテーを口に入れながらいつもの調子でそう答える。
「だって、五朗さ。私がおかしいの分かってるでしょ?そもそも五朗は志路悠紀のファンで、似ている私のことが好きになったってだけなんでしょ?最初から分かってたよ。あなたは母のことに夢中で、見ているのは志路悠紀の姿なんだってこと。」
突き詰めてやりたかった。ずっと思っていたこと、本当は私じゃなくて、私を通して母のことを思っているんじゃないかってこと。
「…そう思ってたの?」
「そうよ。」
負けた犬のように低い言葉で答える。
威嚇することでしか私は私を保つことができない。こんなことを打ち明けて、みずぼらしくて恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
「それは違う。」
五朗ははっきりとそう言った。けれど、
「違うって、どういうこと?」
私は聞いた。知りたかった。なぜ五朗は高校生の頃、あれ程志路悠紀のことを好きでいたはずなのに、なぜ私なんかと付き合って結婚したのかってこと、本当は聞きたかったけれど、怖くてずっと聞けなかった。私だけの注がれている愛情だと信じてさえいれば、私は私でいられるのだから。
「志路悠紀さんは、俺、会ったことあるんだ。彼女はもちろん覚えてない。俺の父親が彼女の出ているビデオを持ってて、俺はそれを中学生の頃に初めて見た。正直、エロいシーンばっかだったけど、俺は感動してしまった。『あなたとの距離』、あの映画は別にエロいからって売れたんじゃない。あの映画は、すごく切ない作品なんだ。俺は苦しくて、すぐに彼女のファンになった。それで、君と出会った。」
「え…?」
予想外の言葉だった。何が予想外かって、私にとっては『あなたとの距離』はもう一生見たくない母の人様には見せたくないあらわな姿が刻銘に記されているのに、五朗はそれが好きだと公言している。
そんな、何で?
私は中学生の頃あの映画をもとに母をからかわれて、私をさげすまれて、いじめられて、もう思い出したくもないものなのに。
どうして?
「どうして?私はあの映画嫌いだって知ってるよね?前に言ったもん。私が二人きりになると震えてしまうのも、知ってるじゃない。なのに、何で?あなたはあの映画に感動して、それでその勢いで私を愛しているって錯覚しただけなんじゃないの?」
自分でも何を言ってるのかは分からない。けれど、私が世界の中で最も嫌うあの凡俗な映画をこの男は好んでいて、感動するとまで言い放って、絶対に感性が違うはずなのに、私たちは結婚まで至ってしまった。
「錯覚じゃないよ。あれはきっかけなんだ。志路悠紀さんのことは画面を通して、あと実際に本物を見て、握手してもらって、そんなくらいのことで好きって感じだったけど、それを通して知り合った君は、違うんだ。俺は、君を愛している。」
照れ臭かった。こんなおばさんになってまで、そんなことを言われるなんて、すごく恥ずかしいという感情が湧き上がっていた。
だけど五朗は目をそらさず、キスをした。
周りの客が見ているのではないかとひやひやしたが、もうどうでも良かった。
そうか、ここ最近の私はおかしかったのだ。
というかいつも常におかしいような気はしていたけれど、とりわけ変だったのだ。だから五朗にこんなことを聞いてしまった訳なんだし、だからこんな状況を平然とした顔で受け入れられるのだ。
五朗は分かっていた。そうなのだと思う。
結婚記念日だからって、こんな新婚夫婦が楽しくてやってしまう様なディナーなんて私達には似合わないと思っていた。でも五朗か行こうっていうから、じゃあ仕方ないと思ってしぶしぶついて行ったのだ。そして案の定こういう雰囲気に流されて私は感情を爆発させ始め、五朗はそれをたしなめた。君が思っていることは間違いだって理解させてやる、そんなことだったのだと思う。
なぜ私と五朗は離れられないのだろう。
世の中には腐る程、本当に腐るほどの男女がいて、私たちはその中の一部なのに、なぜ五朗じゃなければいけないのだろう、なぜ私じゃなければいけないのだろう、いや。
私は、五朗じゃないとだめだと思い込もうとしている。しがみついてでも、そう思い込もうと努力している。だから、私たちはお互いにそうなのだから、ずっと寄り添っているのだ。
口づけがやたら長くて私は呼吸が苦しくなった。けれど目を開けると五朗は息を切らして苦しそうだった。どうしてそんなに興奮しているのか私にはよくわからなかったのだが、なぜだか冷静なはずの私の方がボロボロと涙を流していた。そして、五朗はそれをそっと指で拭ってくれた。
満たされている、私は今幸福なんだ、その瞬間強くそう思っていた。
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