少年たちは大人になって、それから。

@rabbit090

 

 潮風が吹く。

 けれどそれは僕には伝わらない。決して分からない。分かってみたいと思ったことはあったけれど、駄目だった。何をやってもいくら頑張っても、出来なかったのだから。

 「未波みなみさん。ちょっと来てくれない?」

 「分かりました。行きます。」

 余韻を残して離れた。この場所はいつもくだらない現実を忘れさせてくれた。

 「忙しいところ悪いんだけど、みんな手が空いてないって言うから、この仕事終わらせてくれない?」

 彼女は40代半ば頃なのだろうか、僕の上司でいつもあわただしく動いている。たまに容量オーバーを起こしてパニックになり困惑している姿を見かけるけれど、それは人間だから当たり前で、僕は率先してフォローに当たろうと努める。

 だからだろうか、最近は手間取った時には僕のことを頼るようになっていた。上司に頼られるということは、うれしくもあるし大変でもあるけれど、でも良かった。僕は別に、何でも良くて、何でも大丈夫で、何でも。そう、何でも。

 そんな風に考え事をしている余裕もあり、正直あまり忙しくなどないこの職場はとてもぬるいと感じていた。けれど、そんなことはどうでも良くて、僕は早く海に向かいたかった。

 

 「お疲れ様です。じゃあ、もう帰っても大丈夫でしょうか?」

 そう声をかけると、あの上司がわざわざ近づいてきて笑顔で、笑いながら言った。

 「うん、ありがとう。あなたに仕事を頼むと正確で速くて、すごく助かるわ。」

 うれしかった。僕の良い所なんて神経質で繊細で、だから良い所などでは無いのだけれど、この市役所での仕事ではとても役に立つということが分かってきた。

 「はは、はい…。」

 褒められると苦笑いを浮かべ、でも同じ職場の人はみな気の良い人ばかりだから、僕のそんな癖をうとみもせず笑って流してくれる。

 僕は人生に恵まれていると思うし、今はとても順調だと胸を張って言えるような気がする。

 だから、ちょっとだけ。海を見に行こう。

 そう思い立ったから、足早に原付に乗りそこを離れた。



 「ねえ、未波さんていつも早く帰るよね。イケメンだし、仕事が早いっていうことも分かるけど、ちょっとは居残って欲しいよね。」

 「まあねえ。でも彼はすごく人が良いから、憎めないのよね。」

 「そうそう、あいつは本当に人生得してるよ。」

 職場ではいつも、彼が帰った後にはこのようなやり取りがなされている。いつもというか、話題が持ち上がった時にって感じなんだけど、なにぶん未波君はいつも早く帰るから、それで疎まれないのは逆にすごいと思うんだ。

 でも俺は、今日も隅っこで黙々と、目立たないけれどひたすら業務をこなす。誰も見ていないようでしっかりと、働こう。


 俺には、働かなくてはいけない理由があるのだから。

 そう、そっと付け足した。


 「生き返る…のかな。」

 海はすぐだった。というか今日の昼休みにも来たのだから全然久しぶりなんかじゃないし、生き返るだなんて大げさかもしれないけれど。

 「はは、分からない。僕には分からない。ねえ、じゅん。やっぱり僕には分からない、分からないんだ。」

 少しナイーブな感傷に浸って、僕は言葉を吐き出す。ここは静かで誰もいなくて、だから好き勝手に思いを口にできてしまう。

 準は、僕の弟だ。

 準はいつも大人しくて、僕なんかより多分ずっと繊細で、だからなのだろうか、外でも家庭でもうまく過ごすことが難しかったようだ。だから中学生に上がった頃地元のヤンチャなグループに勧誘されてそちらの道へ行ってしまい、そのまま音信不通となっている。

 僕なんかからしたらその行動力にむしろ尊敬の念を抱く程って感じなんだけど、でも両親は違った。

 公務員になるような僕とは違って、手に負えられないやさぐれっぷりを発揮した準のことを持て余して、どうしようもなくて、ひどく困っている様子だった。家庭はめちゃくちゃで、父親は家に寄り付かなくなり、自然と母も外へと向かうようになっていた。たかが子供一人のことで、こうやって簡単に家族が崩れていくなんて、でも僕は実感として知っているから、苦しい。

 海に来るといつも準のことを思い出す。

 準にとって両親は味方では無かったけれど、兄である僕は理解者になれていたようだった。お互いナイーブな所があって、そこが共鳴するというか、話が合うし小さい頃は仲良し兄弟だとよく言われた。

 だからこうやって、海に来てたまに、準と話したことを思い出す。

 「あのな…準。お兄ちゃんな。」

 ある日打ち明けてみようと思った。準にだったら言ってもいいのかもしれない、そう思っていた。小学生のもう卒業間際だったと思う。準は2個下でだから小4くらいだったのかな。かなり大人びていて、女子生徒にも実はひそかにモテていたらしい。同級生からそういう噂があるんだって聞いたことがある。

 「言っていいよ。俺分かってるから、兄ちゃんがいっつも我慢してるってこと。ジジイもババアも勝手でさ、勝手に思い込んで傷ついて、やってらんないよ。いい加減大人になれよ、俺たちの方がよっぽど大人だと思わない?兄ちゃん。」

 達者な口調で畳みかける、それが準の話し方だった。だから両親はついていけなくて、だから手放したのだろうと思う。

 準は家族との交流を断つように、ご飯でさえ外で食べるようにしていた。

 「違うんだ。きっと想像外の事なんだと思う。それでも話していい?」

 そうだ。これは誰にも理解されない、されるはずのないことで、でも誰かに言いたくてたまらなくて、それで。

 「いいよ。」

 準は笑っていた。全てを許すような笑顔で、適当にほほ笑む、僕はいつもその笑顔に救われていた。

 そこで僕は語りだす。

 僕は物心がついた頃、幼稚園の頃だったのかな。一緒に遊んでいた女の子に言ってしまった。

 「何でそんなに驚いてるの?そんなにすごいことでもあったの?」

 自然な感想をそのまま述べた。けれど女の子はとても怯えているように見えた。すぐにその子の母親がやって来て彼女の怯えた様子に不信感を抱いたのか僕と引き離しどこかへと去って行った。

 その時は、どっかの場所で間違いがあって、大音量のアラームが鳴り響いていた。とても大きい音で、普通の人だったのなら、怖くて震えてしまう程だったという。

 それは、僕にも聞こえていた。

 けれど、僕はそれを恐ろしい、と思うことができなかった。

 ずっと、ずっと。残り続けていたけれど、その時の違和感は拭うことができなかった。何かがおかしい、多分それは事実なのだから。

 それからどんどん大人になって、理解した。

 僕は、感覚というか、感情というか、とにかく人より感じる力が弱いってことを、悟っていた。

 それは例えば体育の時間で、ものすごく血を流しながら泣きじゃくっている子を見かけた時、僕もその子とぶつかって血まみれになっていたけれど、むしろ深く傷ついていたんだけど、泣かなかった。というより、泣けなかった。確かに痛いけれど、そこまで強い感情というものを感じることができなかった。

 目の前で泣きじゃくる子と、僕。そのギャップに言いようのない気持ち悪さを感じた。多分それが、僕がおかしいってことの証明なのだと思っていた。それからずっと、僕はおかしいということを感じないように、地味に地味に、何事にも堅実に、何も起こらないようにまっすぐに、歩き続けることを誓った。

  

 準は、笑っていた。

 馬鹿にするような笑みではなく、全てがどうでもいいといったような寛容さで、ただ笑っていた。

 「兄ちゃん、変わってんな。俺も前から兄ちゃんちょっとおかしいなって実は思ってた。でも、俺はそんな兄ちゃんが好きだったから、それで良かった。」

 救われた。その時、確実に。

 僕は弟に救ってもらったのだ、今までのどうしようもなかった歪な自分を、そこで。

 「そうかな…?学校じゃ真面目って言われるし、女の子からも実はモテてるっぽいんだけど…。」

 出た言葉がその軽さで、僕は自分に辟易した。もっと弟のようにずっしりと何かを超越したような存在になりたい、そう思っていた。

 「それ違うよ。確かにうわべだけ、好感を持つという点では兄ちゃんは優秀だと思う。だってイケメンだからさ。でも、モテるってことと、誰かを愛するってことは別物なんだ。俺はね、俺は。本当は、誰かを深く愛してみたい。そう思ってて…。」

 なぜか真剣な顔でそう語る弟は、もう弟には見えなかった。

 確かに弟は弟で、紛れもない事実なんだけど。両親とうまくいかなくて、びっくりする程繊細で、居場所を求めて彷徨っていて、その過程のどこかしらで、僕の知らない誰かと出会ったのかもしれないと感じた。

 小学4年生で既に、弟はどこかの誰かを愛するという経験をしているようだった。

 弟は、だからもう僕の弟では無くて、どこか別の何かへと変化していっているようにその時は感じていた。

 そして、しばらくして弟は帰ってくることが無くなってしまった。

 家族は、欠けてしまったのだ。

 欠けた世界でも、僕たちは日常を営み続けなければ死んでしまう。本当に厄介だなとその当時は思っていた。何が厄介かって、もちろん準のことではない。人生そのもの、全部。喜んだり悲しんだり、色々。そしてそのような感情の波に一息ついて行くことのできない自分。なぜなのかは分からなかった、けれど、僕にはそれができなかった。


 「未波さん、いるって聞いたんだけど。」

 「ああ、いる。今ちょっと休憩行ってるから2,3分したら多分戻るから。」

 「そうですか、ありがとうございます。じゃあ、ちょっと待ってます。」

 「そうね。」

 彼女はいつもここへやってくる。

 そして、彼女が来ると未波君は逃げ去ってしまう。

 未波君はとても物腰の柔らかい好青年で、私はいつも彼に頼り切ってしまう。だって、どんなに仕事が忙しくて誰かの手を借りたくても、みな嫌な顔をして受け入れがたい表情を浮かべるのに、彼は違った。どこか浮世離れしているというか、どこか普通とは違っていて、とにかく私は彼が嫌じゃなかった。そして、彼も嫌ではなさそうだった。

 だから、今日も。

 「ごめんね未波君。忙しいと思うんだけど、この仕事手伝ってくれない?」

 「はい、大丈夫です。…ていうか、あの人今日も来てたんですよね?」

 いつも笑顔で大人しく誰にも嫌われない未波君が、彼女のことだけは毛嫌いしていた。彼女は、前園さんという。

 前園さんは隣の課の女の子で、かなりの美女。つまりイケメンな未波君とルックス的には超釣り合っているのに、彼はそうは思わないらしい。なぜだろう、とても不思議だった。

 「あのさ、何で前園さん避けるの?あの子可愛いし、すごくいい子なのよ?」

 「まあ、そうなんですよね。でも、僕は…。」

 僕は、どうしたというのだ。しかし、彼は続きを語らなかった。

 私は、だからもどかしく気になって仕方が無い。

 傍から見ていると、前園さんには気があるのに、未波君は全く誰に対しても恋愛感情のようなものを抱いている様子が無かった。

 私はもうおばさんだから、若い人たちのそういうサインは雰囲気で分かってしまう。嫌なババアだ、そう思う。

 「志路しじさんはどうなんですか?最近、すごく忙しくしてて、平気かなって思ってたから。」

 気遣いの塊、それが彼、未波君であって、でも私は時たまその謙遜しすぎる態度に苛立ちを覚える。やっぱり、嫌なババアだ。

 「私?私は全然大丈夫。なんだかんだ言ってもっと忙しい課だっていっぱいあるし、ちょっと残業すればいいだけだから。」

 残業を嫌う未波君には当てつけのように聞こえてしまうのかもしれないが、彼はやたらと懐が深く、そういう棘に何らの反応も示さない。むしろ笑って答えてくれる、そんな人。

 いくらでもいそうだけど、世の中は広くてそんな人ゴロゴロと転がっていてもおかしくもないはずなのに、私は未波くんしか知らなかった。小説や、ドラマ、映画の中に出てくる様な不思議な人、そんな印象がいつまでたっても拭えない人だったのだ。

 前園さんは、この狭い町の中でとても有名な女の子だった。

 高校生の頃都会でアイドルをやっていたという話を聞いたことがある。背が低くて、でもそれが似合っていて、とても可愛らしい女の子で、身長の高い私のような女とは正反対なのだなと少しがっかりした記憶がある。そして、もう40代のおばさんなのに、私は未だに慣れることができない。だから、そういう存在からは目を背け、見ないことにする。そうしないと私はこの職場ですら上手くやっていくことができないだろう。

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