第3話 賢者の師

 殴られてじんじんする頭を抱え表に出たルールーが見たのは、玄関先でずぶ濡れで立っている少年である。

 厚い布地でできた外套で身体を覆った彼は、地味目でありながら作りの良いその外套からも、髪の毛からも、泥を含んで汚れた水を滴らせていた。


 玄関前を濡らす少年を見て、ルールーは満面の笑みを浮かべた。


「ようやくかかったわね! グレン!」

「アホか! 手の込んだことしやがって! 花壇の回り穴だらけだろうが!」


 胸を逸らし指を突き付ける少女に怒鳴り返した少年は、重くなった外套を剥ぐように脱いで足元に叩き付けた。

 外套の下に着ている上等なローブもやはり水を吸っている。細かい刺繍の入った袖口が程良く重そうである。


 乱暴にかき上げた前髪の下からは、まだあどけなさを残す顔が出てきた。


「ざまあみなさい! 前回玄関先に穴掘ったら陰険野郎にねちねち怒られたから学習したわ! 戻ってくるたんびにアンタが真っ先に苔だらけの花壇を見に行くのはわかってんのよ! おかげでユンの朝ごはん食べるはめになったけどね!」

「無駄なことに情熱燃やしてんじゃねえよ!」

「フフン! 賢者なんて呼ばれてても大したことないわねグェイン・グレン・クランペット・クランツクーヘン! 名前ばっかり派手にしたってアンタなんて所詮ただの馬鹿グレンよ!」

「なんだとこの馬鹿ルー!」


 売り言葉に買い言葉で白熱するやりとりは既に恒例行事である。

 いつものようにお互い掴みかかろうとしたところで、いつものように仲裁が入った。


「喧しいこの馬鹿共が!」


 再びルールーの脳天に先程と同じ分厚い本の角を落としたユンは、もう一人の弟子、グレンにはタオルを放った。

 ついでと言わんばかりに頭を押さえて蹲るルールーを軽く蹴り飛ばし、口角を上げて笑みを作る。


「ざまあないな、グレン。これぐらいの未来は予期してみせろ馬鹿弟子。家の中は濡らすなよ」


 言い捨てて踵を返す師匠の後ろ姿に、グレンは小さく頭を下げた。


「ただいま戻りました…………くそ野郎」



 ◇



 魔導士は、長い歴史の中で神の血が薄くなるにつれ、少しずつ魔力を減らしてきた。

 今ではただ、星を読む程度の力しか持たない。


 しかしそんな中、極稀に大きな魔力を持つ者が現れる。

 まだその神の血が色濃く残っていた古の時代、魔力を持って火を起こし水を操る者がいたという。

 規模は変わっても、奇跡は未だ残されている。星を読む以上の魔力を持つ者は、確かに存在しているのだ。


 十二歳という若さで、奇跡をもたらす魔力を持つ『賢者』の称号を与えられた魔導士グェイン・グレン・クランペット・クランツクーヘンは、この時代における唯一にして、最後の賢者とされている。

 賢者として、王に仕え、星を読み、国と人とを導き、奇跡を見せる。


 しかし、王の信頼を得、人々の尊敬を集める大魔導士グェインも、師であるユンと、幼い頃より共に育ったルールーにとっては昔のまま、変わらずにただのグレンでしかない。

 だから今もこうして、たまの休暇には森の奥に足を伸ばし、一時の安寧と沼色の液体を得るのである。


「なにこれ」

「目玉焼きとパンと野菜ジュースだ。ありがたく食せ」


 戻って来る時はいつも朝食に合わせる。

 姉が作った朝食を期待していたグレンの前に出されたのは、皿に乗った炭とカップになみなみと注がれた沼であった。


「炭はまあいいよ。でもこっち、沼だろこれ。沼の水汲んできたんだろ」

「野菜ジュースだ。二度も言わせるな」


 食卓の向かいで本の頁をめくる師は、顔も上げない。

 顔も上げないが、グレンを一人にもしない。


 ちなみにルールーは師に命じられ、先程グレンが落ちた穴をせっせと埋めている。


「前はまだ色だけだったのにもう匂いまで沼になってんじゃねえか。何この駄目な進歩。沼より沼っぽいんだけど。何目指してんだよ。沼? 沼なの? 何でだよ意味わかんねえよ」


「そうか。そんなに沼の水が飲みたいか。今すぐ連れて行ってやろうか」


 乱暴者かつ偏屈な師が、開いていた本をやや乱暴に閉じる。

 再び凶器と化そうとしたそれを見て、グレンは口を噤んだ。


「――王都はどうだ」


 もう一度本を開いたユンは、ややあってそんな風に切り出した。


 なんでもないことのように聞こえるそれは、なんでもないのかもしれないし、色んな思いを孕んでいるのかもしれない。

 だがいつも通りの問いにはいつも通りの答えを返す。


 星読み同士の会話は、概ねそんな風にしかなり得ないことを、グレンはもう知っている。


「別に。なんも変わんねえよ。結構良くしてもらってるし楽しくやってる」

「そうか」


 だからどうとも言わず、師はそのまま読書に没頭し始めた。


 そっちはどうだ、と聞くのは今なら自然な流れな気がするが、それでも口にするのは憚られる。ついでになんだか癪にも障る。


「出掛けてくる。ついてくんなよ」


 炭と沼を口に詰め込み席を立つと、ユンはその整った顔を上げた。


「ガキ共に構ってられる程暇じゃないんでな。安心して姉弟愛を深めて来い」


 にやりと笑ったユンは、きっと何でもわかっているのだろう。


 大人だからかそれとも星読みだからか、あるいはその両方か。

 どちらにせよ腹立たしいことには変わらない。


「うっせえくそじじい!」

「誰がじじいだまだ毛も生え揃ってないクソガキが」


 王都にいる誰とも違い、容赦なく手を上げてくるし罵ることもする。


 まったくもってどこまでも腹の立つ男である。

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