第2話 新月の星空

 少女が部屋から降りて食卓に向かうと、残念なことに既に朝食の準備ができていた。


「師匠」

「改まってどうした弟子よ。己の浅はかさ加減にようやく気付いて悔い改める気にでもなったか」


 どこにでも居そうな取り立てて特徴のない容貌の少女は、どこにも居なさそうな儚げな容貌を持ちながらも彼女曰く中身はただの頑固なクソ親父でしかない男に平坦な声で切り出した。

 挨拶もそこそこに師と呼ばれた男も、それに調子を合わせて応えてみせる。


「食べ物を粗末にしてはならないと何度申し上げれば聞き入れて下さるのですかこのクソ野郎」


 食卓の、乱雑に置かれた物を適当に除けて生み出した僅かなスペース。そこに並んだ二人分の皿とカップを胡乱な目で眺めた少女は、師と仰ぐ男を睨み上げた。


 朝食毎にいつも腰掛ける決まった椅子に腰掛け、男は穏やかなだけの笑みを作る。 

 あくまで一見すると穏やかに見えるだけの、実に物騒な笑みだ。


 この笑みに騙されちやほやした挙句、男が調剤した薬を買い求める客は多い。

 それどころかちょっと色を付けた代金を支払ったり、野菜や果物、焼き菓子を持たせてくれる人もいる。

 焼き菓子は少女も嬉しいし、むしろ喜んで食べるけど、どうかしてると思う。

 顔さえ綺麗だったら何でもいいとか、そういうのどうかと思う。本当に。


 椅子に腰かけた男は、弟子の少女にも座るよう促した。

 そして少女は、師の向かいに腰を下ろす。いつもの席。

 少女の隣、もう一つの椅子は、今は空席のまま。

 二人は、二人だけで食卓の席をいつも通り埋めた。


 一応掃除は行き届いている部屋ではあるが、師である男も、弟子である少女も、片付けはあまり好きではない。

 出来ないわけじゃない、あくまで好きじゃないだけだ。

 あと師である男には妙な収集癖がある。本人は絶対に認めようとしないが。


 埃が舞っているなどということはないが、あらゆるガラクタ紛いのものが乱雑に所狭しと積まれた部屋の中で向かい合った二人は、お互いを正面から見据えた。

 目を反らしたら負けな気がする、とかお互いに少しだけ思っている。下らない意地の張り合いは、まあじゃれ合いの様なものだ。


「先ほど、何か聴こえた気がするな」

「「食べ物を粗末にしてはならないと何度申し上げれば聞き入れて下さるのですかこのクソ野郎」と言いました。もうボケたの?」

「鶏より役に立たない馬鹿弟子に代わり朝食を用意した師に向かって何たる言いぐさだ役立たずが」

「パンっぽい炭と玉子っぽい炭と沼色の液体しか見当たらないんだけどどれを指して朝食とのたまってるんですかーこのもうろくじじい」

「お前の言う炭と液体を指し朝食と言っている。そのゴミ屑しか詰まっていない空っぽ以下の頭でも理解できたら減らず口を閉じて食材を恵んでくれたこの世の全てと私とに感謝の祈りを捧げありがたく食しなさい締め上げられたいか小娘」


 男が言い切ったところで、食卓に沈黙が落ちた。

 庭で騒ぐ雛たちの鳴き声が聴こえる。


「…………いただきます」

 軽く舌打ちをして両手を胸の前で合わせた少女は、師に目礼してフォークを取った。


「………………」

 見た目が炭なパンっぽいものも玉子っぽいものも、等しく炭でしかない。


 薬の調合には長けているはずの師が、何故料理となった瞬間、明後日の方向へ才能を爆走させるのか本当に、まったく、全然分からない。

 薬草が食材に代わり、鍋がフライパンに代わるとそこまで劇的な変化があるのだろうか。ないと思う。


 丁寧かつ上品な所作で炭を食べ進める師の、味覚と色彩感覚が崩壊しているのは間違いない。炭ではない普通の料理とまったく変わらない様子で、玉子の成れの果てにナイフを入れている。

 常日頃、頭脳明晰を装っている師ではあるが、実はただの阿呆ではないかと疑ってしまうのもやむを得ないと言えよう。


 そうこう考えている間に、口の中は炭でじゃりじゃりになった。

 飲み物で流し込むにしろ、猫のイラストがついた愛用のカップに並々とそそがれている液体は毒物にしか見えない沼色だ。


 陶器でできたカップの淵ぎりぎりまで注がれたその液体は、粘度が高いらしくありえない表面張力を見せている。

 経験から察するに、この沼色の液体は師特製野菜ジュースだ。手塩にかけて育てた完熟トマトや、瑞々しい青菜が材料であることは間違いない。


 そのまま食べればどれだけ美味しかったろうか。

 しかしそんな、丸かじりなら美味しい野菜達も沼ジュースにされてしまった。

 例によって例の如く、隠し味と称し何かよくない混ぜ物がされているせいだろう。

 食欲が著しく減退する異臭を放っている。


 いつもながら、何と何をどのように調合し、どんな呪いをかければこんな毒沼がカップの中に生まれるのか少しも理解できない。


 しかし、師より早く目覚め朝食の準備をしなければこうなることはわかっていた。昨夜の夜更かしのせいだ。悔いはない。


 仕方なく拷問まがいの朝食を無表情で咀嚼しながら、ルールーは平然と毒沼を口にする師匠と仰ぐ男を見た。


「ねえユン」

「よりによって呼び捨てか師匠と呼べ馬鹿たれ」


 間髪入れずに叩き付けられた言葉は黙殺し、目玉焼きらしき炭における黄身に相当するであろう部分にフォークを突き立てた。

 ぞりっ、というあり得ない音がしたがまあいつものことである。一瞥して口に運ぶ。


「ふふぇんふぁふひゅー」

「口に物を入れたまま喋るなあほう!」

「ぶふっ」


 べちっ、という音と共に、ルールーの顔面に何かが貼り付いた。剥がして目の前にぶら下げると、本物と見紛うばかりのカエルのゴム人形である。


 手近にあったものを適当に投げつけたらしい師は、何事もなかったかのように食事を再開している。

 ゴム人形を無造作に床に放り、再び師、ユンを見た。


 食事に関わる作法にだけ、無駄に口やかましいユンではあるが、それでも五年も経てば弟子の食べ方については諦めている。

 フォークに指した黒い白身を持ち上げたルールーを一瞥して、ユンはナイフとフォークを置いた。


「昨夜は新月だったな。何を知った」


 ユンと出会って、彼を師と仰いで五年。

 ルールーは未だに魔導士として、それどころか見習いとしても未熟、半人前以下である。


 魔導士とは、魔力を持って導く者。

 夜空に浮かぶ星を読むことで、過去を知り未来を垣間見、人を、時に国を導く。


 古の時代、人に交じった神の血は、魔力という奇跡となって人々にもたらされた。

 長い年月を経て薄くなったその尊き血は、今はもう、僅かばかりの魔力を与えるのみである。

 しかし、その僅かな魔力こそが、全てを知る星と人との間を渡す。


 ルールーに流れる古い神の血は、ごく僅かなものらしい。

 微々たる魔力しか持たない身では、読み取れることもたかが知れている。むしろ殆ど役には立たない。

 弟子として教えを授けてくれるユンにも、賢者と呼ばれる宮廷魔導士グェインにも、遥か遠く及ばない。


 それでも師であるユンは、ルールーが望むまま、星読みとしての生き方を説く。


「グレンが戻って来る」


 ほんの少しの僅かな魔力。しかし、月のない夜であれば、星の光はいつもより多くを伝えてくれる。

 ルールーであっても、読めることが出てくる。


 昨夜、知れたことを口にすると、師は僅かに口角を持ち上げた。そうしながら、食べ終わった食器を重ね、テーブルの端に寄せる。


「お前にしては上出来だ。で、どうした?」


 来訪者があることなど新月を待つまでもなく、とっくに見通していたのであろう師は、弟子に先を促し手近な本の山から分厚い一冊を手に取った。


「落とし穴の準備は万全。底には沼の水を運んで入れてやったわ。我ながら力作!」

「こんの馬鹿弟子がああああああ!」

「ルゥウウウウウウウウウウウウ!」


 ルールーが握りこぶしを固めやや高揚した表情で言い切るのと、ユンが分厚い本を振りかぶるのと、玄関の外から怒りを孕んだ男の叫び声が聴こえたのはほぼ同時であった。

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