第29話  もしも

 2人とも、レジを出て、大急ぎで店の表側に回る。

 ひとりの中肉中背の中年男性が、包丁を振り回して、エスカレーター前にいた女性に向かっていこうとしている。


 福本と2人で、無我夢中で、店前に積んでいる雑誌をつかんで、その男に向かって投げつける。

 たて続けに飛んでくる雑誌に、男が、一瞬ひるんだそのすきに、女性は、ちょうど目の前の下りのエスカレーターに乗って、下の階へ転がるように降りていき、大声で、助けを求めている。

 エスカレーターの向こうの、手芸グッズや雑貨を扱う店からは、女性スタッフたちが、ほうきを振りまわしながら、カウンターから、駆けつけてくる。この店には、常時、女性のスタッフしかいない。

 おそらく、今、このフロアには、男性は、この暴れている男と福本しかいない。

 男は、襲おうとした女性に逃げられ、今度は佳也子たちの方に向かってくる。

 飛んでくる雑誌を払いのけながら、突進してくる。


 佳也子の足がすくむ。

(もうあかん……)

 そう思ったとき、目の前に、福本が飛び出して、佳也子を抱えて横に飛びのく。

 間一髪、男の包丁から逃れ、2人とも床に転がる。

 すぐに、身を起こして振り向くと、こちらに向かってくる男のすぐ背後から、警備員と、スーパーの男性社員らしき男たちが、駆けつけてくるのが見えた。


「確保や!」声がして、彼らは、男を背後から取り押さえ、包丁をもぎ取る。

「うお~、離せや! 俺は客やぞー! お客様は神様やろうが~」

「何を言うてるんや!」

 威圧感のある声で、男を取り押さえた警備員が一喝する。

 観念したように下を向いてだらりとした男の体を、両脇から支えるようにして、厳重に周りを取り囲み、彼らはスタッフ専用のエレベーターに向かっていく。


 はあああ……。

 今までの人生で、これほど大きなため息をついたのは、初めてだ。

 全身の力が抜けたようになって、足に力が入らない。

 先に、福本が立ち上がり、佳也子を抱えるようにして、立たせようとしてくれる。

 でも、どうしても、足に力が入らなくて、情けないけど、佳也子は立ち上がれない。

 今頃になって、全身がガクガクして震えが止まらない。


「もう大丈夫ですよ。ケガはないですか」

 目の前に、心配そうな福本の顔がある。

 佳也子は、やっとのことでうなずく。

 向かいの店のスタッフたちも駆け寄ってきて、「大丈夫ですか」と口々に声をかけてくれる。

 彼女たちも、目の前で見ていて、きっと怖かったはずだ。

(私も、しっかりしないと)

 そう思うのだけれど、佳也子は、ぺったり床に座り込んだまま、動けない。

 そんな佳也子を気遣って、

「もう大丈夫もう大丈夫」そう言って、福本が、佳也子の背中を優しく、とんとんとたたく。

 お向かいの店のスタッフの一人が、佳也子に、ペットボトルの水をキャップを開けて、そっと差し出してくれた。

「あ、ありがとうございます。すみません」

 お礼を言って受け取り、水を飲むと、少しずつ落ち着いてきた。

 ふう~っ。

 もう一度、息を吐き出し、佳也子が立ち上がろうとすると、福本が、サッと支えてくれた。


 何とか立ち上がって、エレベーター周りに散乱した雑誌を、拾ってくれている人たちにお礼を言う。

 彼女たちは、さっき店内にいたお客さんたちだ。彼女たちに何もなくてよかった。ほっとする。

 お客さんたちは、佳也子たちを気遣う言葉をかけて、下の階へ降りて行った。


 落ちた雑誌を拾い集めて、まとめて、ブックトラックに載せ、乱れた棚を整え直す。気持ちが徐々に、落ち着いてくる。


「福本君、大丈夫?どこか、ぶつけて、ケガしてへん?」

「いえ、大丈夫ですよ。佳也子さんこそ、どこか、痛いとことか」

「うん。大丈夫と思う」

「あとから、気がつくこともあるんで、気をつけてくださいよ」

「お互いね。……ほんま、びっくりしたね」

「うん。でも、誰もケガなくてよかった」

「うん。ほんとに、よかった。」


 佳也子は、あらためて、福本の方に、向き直って頭を下げた。

「助けてくれて、ほんとうに、ありがとうございました」

「何をそんなにあらたまって」

 福本が、目をぱちぱちさせている。

「ううん。あのとき、助けてくれたから、私、無事やった。あの瞬間、もうあかん……て、固まって動かれへんかったから。ほんまに、福本君が、無事でよかった……。危ない思いさせてごめんなさい」

「大丈夫ですよ。佳也子さんも、必死で本投げて、あの女の人、助けたやないですか。みんな、お互い様ですよ」

 福本の笑顔は、穏やかで、どこまでも優しい。

「ありがとう。……それにしても、本にも申し訳ないことしたわ。思いっきり、人に向かって投げてしもた」

「でも、人の命を救えた、ということで赦してもらいましょ」

「そうかな。そやね」


 少しずつ、落ち着いてくる中で、佳也子の頭の中に、想太や英子や圭の顔が、次々と浮かんだ。

 もうあかん、と思った、あの瞬間は、頭の中は真っ白だった。

 今やっと、3人の顔が浮かぶ。

 とくに、想太の顔を思い浮かべたとき、今日、無事に家に帰れることを、心からありがたいと思った。

 あの子を、泣かせたり、ひとりにしたり、絶対、したくない。

 佳也子が、もしも帰れなかったら、あの子にどんな思いをさせてしまうか。

 それを思うと、佳也子は、あらためて、全身が震えるくらい怖くなった。心底、怖くてたまらない。


 そして、英子には、どうしても知られてしまうだろうけど、(もしかしたら、もう知っているかも)、でも、圭には、絶対知られたくない、と思った。

 もしも、このことを知ったら、彼は、心配して真っ青になるだろう。そんな彼の顔が佳也子の目に浮かぶ。

 それでも、すぐには駆けつけられない自分を責めて、きっと、彼は落ち込むだろう。


 日頃、佳也子が彼にしてあげられることは、何もない。

 だから、せめて、佳也子は、彼の笑顔を守りたいと思う。

 そのためにはどうすればいいのか、よくわからないけど。

 少なくとも、心配をかけたくない。

 だから、心の中で、一生懸命祈る。


(どうかどうか。ニュースとかになりませんように)

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