第23話   ここにいる

「ありがとう……」

 佳也子をそっと腕に包んだまま、圭が言った。

「君が、いてくれて、よかった……」

 少し腕を緩めて、佳也子の目をのぞき込んだ圭が言う。

「君は、俺の、心の支えなんだ」

 低い声で、ささやくように言って、圭は、ゆっくり腕をほどく。

「……ありがとう。」

 とろけるような笑顔と言葉を残して、圭は、帰って行った。


 ドアの向こうに、圭の姿が消えても、しばらく、佳也子はぼうっとしていた。

 圭の腕の温かさが、まだかすかに肩に残っている。

 テレビの画面の中では、毎日のように、その姿も声も見聞きできる圭だけれど、それでも、佳也子には、よけい遠くに感じられる日々もあった。

 だから、この温かさは、夢のように思えてしまう。

(君は、俺の、心の支えなんだ)

 そう言ってくれた言葉が、頭の中を、ゆっくりとめぐる。


(私が、彼の力になってる? 私が、彼の心を支える力になってる?)

 嬉しいような、不思議なような、感覚が、胸の中に湧き上がる。夢の中にいるような気持でいながら、佳也子の心に、一つ確かに感じられたのは、彼の、『ありがとう』という言葉だ。

 彼が、その言葉に、どれだけの思いを込めたかが伝わってくるような、泣きたくなるくらい優しい、温かい、『ありがとう』だった。


 佳也子は、自分で自分の肩をそっと抱く。

 誰かの力になれる自分であること。

 それが、とてもとても嬉しかった。

 そして、その『誰か』が、他でもない、圭であることが、心から嬉しかった。


 翌朝早くに、圭は撮影に出かけると聞いていたので、佳也子と想太も早起きして、英子の家で、4人で、朝食をとった。

 メニューは、和食で、炊き立てのご飯とホッケの塩焼き、具だくさんのお味噌汁、お漬物、ゴマ豆腐、きゅうりとわかめの酢の物、海苔。

 圭は、炊き立てのご飯を、溢れんばかりの笑顔でほおばる。

 今朝も、圭の隣で、想太がニコニコしている。

「おいしい~!」

 2人で、顔を寄せ合うようにして、声をあげている。

 佳也子も英子も、そんな二人を見ていると、自然に笑顔になる。


 今朝、佳也子と顔を合わせたとき、圭は、滲むように笑って、

「おはよう」と言った。

 声は、いつものように柔らかで少し高めの、「おはよう」だったけれど、そのまなざしは、佳也子の心に静かに沁みてくる。

 佳也子も、見つめる瞳に精一杯の思いを込めて、笑顔を返す。


 今日の撮影は、事前に申し込んだ人の中から、抽選で当たった人たちが、演奏会場の観客役をやるので、佳也子たちは、見に行くことはできない。

 けれど、圭は、佳也子たち3人に、演奏する予定の曲を、英子のピアノで、昨夜こっそり披露してくれた。


 朝食を終え、身支度をすませて、玄関に立った圭が言う。

「また、来るね」

「また、きてね」

 想太が、しゃがみこんだ圭の首に巻きつくようにして言う。

「元気でね」

「圭くんもね」佳也子と英子が言う。

「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」3人が言う。

 お互いに、言葉をいくつ重ねても、言い足りないような、そんな気がして、もどかしい。

「行ってらっしゃい。……いつも、ここで、応援してます」

 佳也子は言った。

「うん。ありがとう!」

 圭の笑顔がはじける。


 圭の乗りこんだタクシーに、3人で手を振る。


 遠ざかる車を見送りながら、佳也子は思う。


 次に会えるのは、いつだろう。

 何も約束はないけれど。

 それでも、自分は、ここで、しっかり立っていよう。

 圭が圭の場所で、精一杯がんばるように、自分は自分の場所で、精一杯がんばろう。

 これまで、直接圭のためにしてあげられたことなど、ほとんど何もなかった。それでも、そんな自分を、『心の支え』だと、言ってくれた圭に、恥ずかしくない自分でいよう。


 私は、ここにいるよ。

 あなたを、一生懸命、応援しているよ。

 そばにいられなくても。

 なかなか会えなくても。

 ずっとここにいるよ。



「さあて、想太、保育園行こうか」

「うん! きょう、あきとくんが、ぴかぴかのどろだんごのつくりかたおしえてくれるねん」

「ほほう。それはぜひみたい! できたらみせてね」

 英子が言う。

「うん。わかった!」

「そしたら、しゃしんとって、圭くんにもおくってな」

 想太が、佳也子に笑いかける。

「もちろん!」


 さあ、今日も一日が始まる。

 フレーフレー、圭くん。

 フレーフレー、みんな。

 フレーフレーわ・た・し。  

 がんばろう。

 佳也子は、想太をぎゅうっと抱きしめる。もしかしたら、その『ぎゅう』には、ちょっぴり、圭への想いもまざってたかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る