第3話 思いがけなく

 小路を少し行くと、古い庭付きの1戸建てがある。


 その門を通って、庭の敷石をたどって右に進むと、家主の悠木英子が住む母屋。左に進むと、2階建ての小さなアパートがある。

 佳也子が住むのは、その1階で、一番母屋に近い部屋だ。英子が母屋の縁側に出れば、佳也子の部屋の窓越しに会話することもできる。


 佳也子と小さな甥っ子、想太は、3年前からここに住んでいる。

 事故で急逝した姉の一人息子の想太を引き取って育てることになったのは、彼の父親が再婚することになったからだ。再婚相手が前妻の子どもを育てる自信がないと言ったとかどうとか、さだかではないが、夫婦2人とも、子どもなしでの新たなスタートを望んだからだ。


 想太を引き取った当初は、実家の母親と佳也子の二人で、想太の世話をしていた

のだが、母が亡くなった3年前からは、古くて管理のしにくい実家を手放して、佳也子は想太と、この街に引っ越して来た。


 駅近、買い物も商店街がすぐそばにある、これ以上はない好立地。多少、建物は古くなってきてはいるが、全く気にならない。

 それよりも、佳也子にとってありがたいのは、同じ敷地内に住む、家主の存在だ。佳也子たちが住み始めた当初は、夫妻で暮らしていた家主は、昨年、夫が亡くなり、妻の英子一人だけになった。

 夫妻はともに、小さな子どもを一人で育てている佳也子をあれこれ気遣って、声を

かけてくれた。

 両親もなくし、頼る親戚もいない佳也子にとっては、自分の親代わりにも思うほど、ありがたい存在だ。昨年来、一人暮らしになった英子は、変わらず元気で、佳也子と想太を気にかけてくれる。


 部屋で荷物を降ろすと、佳也子は、小さなポシェットにスマホと財布を入れて肩にかけ、手には、自分用の傘と、想太用の黄色いカッパを持って部屋を出た。


 今日は久しぶりの早い退勤だったので、早めにお迎えに行って、一緒に晩ご飯を作るつもりだ。

 表に出ると、英子の家の方から、何やらにぎやかな笑い声が聞こえてくる。来客らしい。

 中学校の教師をしていたという悠木夫妻のもとには、時々、元同僚や教え子らしい来客もあって、特に昨年来一人になった英子を気にかけて、訪れてくる人の姿を時々見かける。


 なかなか止まない雨の中を歩いて商店街を抜けて、保育園に行く。

入り口近くで、そわそわと外を伺う、小さな姿が目に入る。

 想太だ。

 今日は早めのお迎えに来ることを伝えてあったので、今か今かと待っていたようだ。

「かあちゃん!」

 小さな子犬のように、嬉しそうに手を振っている。


 本人は、「かやちゃん」と言ってるつもりなのだが、かや、は言いにくいらしく、周りの人の中には、佳也子のことを、「母ちゃん」だと思っている人もいる。実質、母ちゃんのような存在の佳也子だ。問題ないと言えば問題ない。

「想太、お待たせ。雨だから、これ着ようか」

 持ってきた黄色いカッパを着せると、小さいヒヨコの出来上がりだ。


「せんせー、さよならあ」

 ヒヨコが手をパタパタさせる。

「はい、さようなら。ヒヨコの想ちゃん」

 担任の田中先生が目を細める。

「ぴよ」

 想太はごきげんだ。

 佳也子は、先生に挨拶をしてから、思わず、想太のまるいほっぺをちょんとつつく。

「さあ、帰ろっか」

「ぴよ」

 2人で園を後にして歩いていく。

 

 商店街に来て少し進むと、急にヒヨコが立ちどまった。

「ぴよ」

 ケーキ屋の中のプリンを指さしている。

「ぴよ?」(ほしい?)

「ぴよぴよ」(ほしいほしい)

「ぴよ!」

 ヒヨコの手を引いて、中に入る。

「今日は、プリン、お買い得デーですよ」

 なじみの店員さんが笑顔で教えてくれる。

「ぴよ!」(ほら!)

 得意げなヒヨコ。彼は、佳也子がお買い得、という言葉に若干弱いのを知っているのだ。

 でも、いつも150円のプリンが100円。これは確かにお得。

 そうだ。英子さんにも買っていってあげよう。彼女もこの店の少しかための昔風のプリンが好きなのだ。


「今どきのプリンの、トロトロすぎるのはどうもねえ……」といつも言っている。

 お客さんも来てたみたいだから、一つか二つ多めに買っていこう。足りなければ、あとで一人で食べてもらってもいいし、余れば、ヒヨコの明日のおやつだ。

「プリン、5個ください。すみません、2個と3個に分けて袋に入れてもらえますか」

「はい、いいですよ。ありがとうございます」

 ヒヨコには、

「これは、お隣のおみやげにもするから、全部うちで食べるわけじゃないからね」

 と言っておく。

「ぴよ」(了解)

 ヒヨコはよくばりではないのだ。

 とにかくプリンがある。それだけで、嬉しいらしい。


 黄色い小さな想太ヒヨコが、とことこと歩く姿は可愛く、通り過ぎる人が振り向いたり、手を振ってくれたりする。

 すれ違った女子中学生たちが、可愛い~、ヒヨコみたい~と声をあげたので、想太は、ぴよ。と愛嬌を振りまきながら、彼女たちに手を振っている。


 彼は、とても人懐こくて、誰に対しても笑顔だ。

 だから、いつも難しい顔をして愛想の悪い老人でさえも、想太には、おはようと自分から声をかけてくれたりする。

 想太のおかげで、佳也子はこの町や隣人たちにすぐにとけこむことができた。


 アパートまで戻ってきて、悠木家のベルを押す。いつもなら、想太を抱き上げて、想太が押すのだが、

「今日はプリン持ってるからね、かやちゃんが押すよ」というと、

「ぴよ」

 ヒヨコは素直にうなずいた。

 いったい、いつまで、ヒヨコでいる気かしら?と思ったけれど、おそらくは、黄色いカッパを脱ぐまでは、彼は、ヒヨコでいるに違いないと思ったので、ぴよ、と佳也子も返して、ベルを押した。


「はあい!」

 元気のいい声がして、奥からパタパタと、足音が近づいてきて、英子が現れた。

「あらあ、想ちゃん、ヒヨコだね」両手で想太の頬を包む。

「ぴよ!」ほっぺをはさまれて嬉しそうに、ヒヨコがパタパタ羽ばたく。

「これ、プリンです。大村屋さんの。今日、お買い得デーだったんです。もしよかったら、お客さんと一緒に召し上がってください」


 玄関にある来客のものらしい紳士物の靴が、一人分なのを見て、2個入りの方を渡そうとすると、

「あら、嬉しい!ここのプリンが一番おいしいよねー。よかったら、あがって、一緒に食べましょ。自分たちの分もあるんでしょう?」

「あ、はい。でも、おじゃまじゃないですか? お客様でしょう」

「いいえ~そんな気の張るお客さんじゃないのよ。あの子もお友達が増えたら嬉しいはずだし、それに、わたし、ちょうど佳也ちゃんにききたいこともあるし……」

 まあ、とにかくあがってあがって、と英子さんは、想太が黄色いカッパを脱ぐのを手伝っている。想太は、あがって一緒に、と言われた時点で、早くも、カッパを脱ぎ始めていたらしい。

 英子さんが大好きなのだ。


 佳也子が、カッパについた水気を外でふりおとしてから、ハンガーにかけている間に、想太と英子は一足先に奥の居間に入って行った。


「こんにちは!ぴよ!」

 元気いっぱいに、英子の客にあいさつする想太の声がする。

 黄色いカッパから脱皮したのに、どうやら、まだ半分ヒヨコが残っていたらしい。

「こんにちは~ぴよぴよ~」

 想太に合わせて、相手もヒヨコになってくれたらしい。2人で何やら、ぴよぴよ言い合っている。

「あらまあ、ヒヨコが2ひき。あ、2羽か」

 英子の笑い声がする。


 居間の入り口ののれんをくぐって、部屋にいる客の姿を見た瞬間、佳也子の足が止まった。

「え?!」

「ぴよ?!」

 想太のヒヨコがうつってしまったらしい、その人も、驚きの声をあげて、目を丸く

している。

 ついさっき、書店で、本を一緒に選んだ、笑顔の印象的なその人だった。


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