鏡には私が映っていた
紗希と別れた私は今、信号機の前に立っていた。
道路の上を転がる、ざあーというタイヤの音。走り抜ける車から奏でられる旋律は、人工海の潮の満ち引き。だから一人で佇んだって絵にはならないし、海と言えばの濡れるか濡れないかの可愛げのある遊びは、ここでは生きるか死ぬかの度胸試しにしかならない。
──ただ私はここに居る。
どうということもないその行動のワケは、過去を懐かしんでいただけの事。
この場所は二人の関係性をよく表しているようで、向こうへ渡って行った彼女の背中に思い出を幻視したのだ。
「私はあなたが幸せならそれでいいの。あなたが幸せにならなければ私は報われないの。ええ、幸せはあなたが尺度の、私はそんな狂った人間だから。
……それでも、あなたと一緒に居たいから約束を破っちゃったわ」
伊化左に関わりをもたないことが彼女の幸せ。
不幸せの原因から離れれば、彼女は自然と幸せになるだろうと、令は言った。
それはさらに懐かしい過去の話、その時は確かにそうかもしれないと納得してしまったもので、それから随分長い事会う機会に恵まれなかった。
やがての時、再開は高校。あれは本当に偶然で奇跡のようなものだったと今になってもそう思う。ああそう、運命だった。
「……不可侵だって言われたけれど、やっぱり馬鹿よね。令は私にどんな信頼をおいたのかしら? 自制心のない私がそんな口約束を聞くわけないのにね」
さて、と。
いい加減、ただぼうとしているのも時間の無駄だと、しゃきりと顔を上げた。
見れば青信号はちかちかと点滅しているが、走れば十分に間に合う。ついさっき変わったばかりだったから、運動部に所属する自分ならなんてことはなく渡りきれる。
私はさあ急げと、足を一歩踏み出した。
──とん。
「っえ、」
『熱い』
真っ先に感じたのはその感覚。局所的で猛烈な刺激は炎に巻かれて焼かれているかのように、理不尽に容赦なくとめどなく残酷に。
私は後ろからいきなり押されたと思えば、次の瞬間には背中がひどく熱く、そして息は苦しくなっていた。
くらりと、まるで眩暈のように足がぐらつく。おぼつかない。
そのくせ頭はしっかり回るものだから、体に感じた感覚がなんであるかを必死に理解しだしてしまうのだ。
熱はやがて痛みに変わり、……ああそう。それでようやく痛みだと認識した。
……そうとても、痛いのだ。
私は背中を刺されたのだった。
「う、あ……っ…」
火事の日よりもずっと直接的な暴力。吸い込む空気は何倍にも苦しい。
そんな中でも私は分かる。後ろに立つ人間は知っている人だと。
「は、はは。そうよね、私は邪魔者だから……っ、こうするのは時間の問題だったわね……。ふふ、清清したかしら、鏡?」
「……」
「──そう。でもいいわ、私は私の死にざまに興味は無いの。そしてやりたいことを果たした人生に悔いもない。……っ、令に、よろしく言っておいてね」
いい加減私は邪魔者だったらしい。鏡がここにいて、私を殺そうとしたのだからきっと間違いない。
令からの頼み事なんて胡散臭いと思いながら、やっぱりそうだった。
「──ね、」
「うん?」
小さく、耳元でそう呟く鏡。
聞こえた声は間違いようのない鏡のものであり、妹は吸血鬼としてそこに居るのではない。伊化左鏡として行動していた。
血に濡れたナイフを持つ妹は、伊化左鏡だった。
「……姉さん。わ、私も、助けてよ」
すがるような声で、鏡はそう言った。
声色は決して恨んでいるわけでもない。ただ懇願する妹がそこにいただけ。
それで私は、すべてを分かった気がした。
地獄はきっとまだ続いていた。伊化左の人間が生きる限り、伊化左の人間の地獄に終わりはないのだ。
「ああ本当、どうしようもない……」
それに。そうだった、自制の利かない私の行動が招いたことだったのだ。
愛しい人のためと突き進んだ先は、目的のためなら手段を選ばなかった祖父と何ら変わりのない結末が待っていたという事。
「……私も大概、伊化左の人間だってことね……」
涙を流した伊化左鏡を、崩れ落ちる視線から僅かに捉えた。涙を流した姿というのは間違いようもなく伊化左鏡で、それ以外の何者でもない。
最後の光景。それが私の、無自制と悔いの人生の終わりだった。
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ぶちりと、私の中で何かがちぎれた音がした。
嘘みたいだけど、耳に聞こえたわけでもないけど、確かにそんな音が聞こえた。
でも。体の中に紐なんてあるワケもないし、脳の中に耳は無いし、ましてやここは夢の中。そんなこともあるだろうと、私はさっさっと家をあとに。
ここは『今日の夢』。凛と別れたくらいの時刻から、私は夢を見始めていた。
──だが。
「あれここ、んん?」
向かった先は凛と別れた交差点だった。
何故私の足はここへ向いて、ここへ私を連れてきたのか分からない。引っ張られるようだったと、言い訳は自分にしておく。
「なーにやってんだ私は……。鏡の事を調べたいってのに、来た道を戻るなんて何の意味があるんだよ。
──てか時間も、なんでこんな夕方にやってんだ私?」
近場のコンビニの時計を覗きみて、17半過ぎの時刻。
目星があったからという理由のつけられる時間ではなく、場所といいコレといい、自分の不調を疑わずにはいられない。
「……はあ、寝る前に呑んだコーヒが聞いたかなぁ。こんなこと今までなかったけど、カフェインで目がギラついてんなかもな。いや脳か。
仕方ない。一度起きて仕切りなお──ん? 赤崎……」
……と、誰だ。
交差点の向こう側に立っていたのは赤崎凛だけではない。
その後ろにもう一人。
そう、もう一人いた。ぴったりと張り付くように、家入紗希はいた。
そして彼女は振り返って、その場から逃げ出した。
さっき夢だからと受け入れた不審はこれで、『そんな理屈では受け入れられないこと』だと気づかされた。
今まさに倒れた赤崎凛を見て、それが現実。予感する不安を誤魔化していただけだったと。
「……ちが、あああああっ!!!」
そんな情けない声と共に、私は交差点へ飛び出していた。
傍観者。見るだけの私はもう何をしても遅いというのに、無駄なことと知りながら駆け出していた。
合理的に言えば逃げる犯人を、家入紗希の姿をしたその人を追いかけるべきである。『今日の夢』が過去ならば、凛が流している血を止めたって、その行動に意味は無いのだから。
「何で……凛、嘘だ!!」
しかし残念ながらその合理的思考は今の私にはなかった。
眼は凛の姿しか映さず、周りの事など視界にすら入っていない。
ただひたすらに、無意味なことを必死に私は、走る。雨の降ったあの過去が再び訪れてしまった。
救急車が繋がらないことに苛立ちを覚えている。私はそれがそもそも繋がらないし、携帯電話すら手に持っていないのに気が付かない。投げ捨てたのは空虚。
──そう、だから。
信号はとっくに赤に変わっていることも、横からトラックが来ていることも、今の私には知りえる事ではなかったのだ。
ドガン、という派手な音が聞こえたのは一瞬。夢の中にブレーキなんてあるワケもなく、あたりも交通事故が起きたにしては日常のまま。
跳ね飛ばされた私はそれで目を覚ましていた。
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