汝、忘却を忘るることなかれ

「私の知る限りで言えば、伊化左鏡は普通の女の子ね。刃物を振り回して血を舐めとる今の猟奇的な成長は、正直言って予想外。

 ええまあ、最後に会ったのは確かに10年以上も前になるけれど……まさか全くの別人として生きているなんてね」

 

 伊化左鏡について。その現在。

 まずは血縁者たる凛にその素性を詳しく聞いてみようと思ったが、帰ってきた回答は率直に言って何の足しにもならない言葉だけであった。

 10年前。彼女が事件に巻き込まれたあの日を遡り、実際に会っていた時期は聞けばそれよりも前の話らしい。

 ……しかしそんなことはどうでもいいくらいには、頭の痛くなる話が出てきたので、片づけるべきはそれから。


 ──凛は言った。

 『伊化左家は超能力を研究していた家である』と。

 祖父である伊化左牢から始まったそれは二人の子供に受け継がれ、そしてその子供に。

 息子、伊化左かい。その娘の令と鏡。

 娘、伊化左ねい。その娘の凛、と。

 赤崎の家はそして、10年前に凛を残して亡くなったという。


「研究? うーん、聞けば聞くほど頭が痛くなるな……。超能力一家っていう私の認識は正しいみたいだが……」

「そうね。確かにおかしな家よ。だって能力の発現のために子供を虐待するような家なんだから、歪んでしまうのも無理もない話でしょ。

 私の性格も全部それが由来。紗希にかかった迷惑は、恨みを持つなら私の祖父にね」

「おい、景気よく謎を拡大させるじゃないか。虐待だって?」

「そう。何度も聞いた言葉があるでしょう? 『欠落』って。あれは超能力の発現条件なの。

 私達はモルモット。家の中じゃ、存在はおよそ人の扱いを受けなかった。

 ──欠落が条件なら、超能力を持たない子供には……研究のサンプルには必要な行為が行われたという事。ハッキリ言えば身体への虐待、人為的な欠落という地獄よ。……ふざけた話よね、本当に」

「……ごめん。嫌なことを思い出させたかな」


 虐待という言葉に対し何の配慮もしなかった私。

 浅はかにもそんな言い方をしてしまった私だが、しかし凛はいいのよ、と。彼女は気にしていないとそう話した。


「過ぎたことよ。それにね、確かに虐待はあったけれどそれは私にではないの。ひどい目にあっていたのは妹だけ。でもあの家にはそれぞれの地獄が存在したんだよ、紗希」

「……鏡だけがそんな目に合ったって、つまり凛は、元から欠落していたって?」

「そ。自制心の欠落した私は、その代わりに人を自在に動かす催眠術を手に入れた。

 そして鏡は、苛烈な虐待に耐えかねて……いつしか自分以外の何者かになりたいと願うようになった。──鏡の欠落の原因はそういう事。他者を羨む果てに、鏡はその眼が映す姿との境界が欠落したのよ。あの家の中、誰よりも切実な願いのためにね」

「そうか……」

 虐待による人為的欠落。凛の話によれば、超能力の代償は重い。

 けれどそれを自身の子に行うというのだから、胸に残るどす黒い感情は吐き気に近いものがあった。

 ──だからなるほど、と。凛の言った祖父への恨みは、10年と経っても形見を忘れ去ることのできないほどに深いものであったのだろう。


「あの苦しみや痛みは私に与えられたものではなかった。令も同じく、すべては妹にだけ向けられたものだった。……痛いのも苦しいのも私じゃないからいいと、それが赤の他人なら私は思っていたわ……。ええ。そうであったのならどれほどよかったか。

 ──でもいつか悪夢から覚めて、明くる朝にはすべてが変わっていてほしい、って。……儚くもそう願えど、聞こえてくる叫び声は止むことはなかったわ」


 いつの日かと同じ。交差点を走りゆく車を見送りながら、凛はそう言った。

 あまりにもな孤独を思わせた彼女の姿は、過去に原因たるその理由があったのだ。

 青に変わった信号を無視して、私は確かめるように凛へ、静かに言葉を。

 

「それが……凛の地獄?」

「そう。これが私の地獄。

 自らの苦しみは目の前の地獄が自分のモノでなかったこと。見ているだけしかできなかった、無力な少女のね」

 悲しげな声。落胆はその地獄にいた少女から紡がれ、そして過去へ向けられている。

 そして言う。

 どんなに地獄であっても、傍観は罰。そして罪には罰が必要だと。

 だから私は忘れないのだと。


「……何となく……いや。凛、私みたいな部外者がその心の内面を語るのは違うと思うけど──」

「……けど?」

「違うんだよ凛。それは違う。『祈りは素晴らしく。語りは厳かに』。

 妹の地獄に、けれど気高さだけは失わなかった。けれど地獄を忘れ去ることができない凛は、その語りに誤魔化をしなかった。なら、凛だけが背負うようにいるのは違うだろう。自分が悪いと思ってしまうのだって、例えできたことが祈りと傍観でしかないにしても、責めるのは違うよ」


 重ねる姿は自分。

 見るだけしかできないことの苦しみは、少なからず分かり合える一つの共通点である。無力感はきっと、彼女に残り続けているのだ。

 ──しかし。

 あはは、と。そんな笑顔は、勘違いを指摘する言葉とともに現れた。

 

「……あら。もしかして、すべてを話したと思っている、紗希?」

「え? どういう……」

「ほら。10年前、何があった? 祈りの結実。自制心の欠落した私がすることと言ったら、分かるでしょう?」

「っあ、いやまさか……凛!! あの事件は、」

「私を残してすべてが燃え去った凶悪は……。ふふ。でもね、狂えるほどの絶望から生まれた、たった一つの善行だったのよ。何もかもが燃えつくした赤崎の家で、ね」

「……凛」

「ふふ。『──そして祈りは届く。語りは雄弁に』。転落から始まった私の願いは、殺しただけじゃ収まらないわ。

 だからね紗希。私達はすべてが元通りになって初めて、……初めてすべてを忘れ去るべきなのよ」


────────────────────────────────

「鏡のこと、どう思ってる?」

「……どう、って?」

「かわいそうだとか、そういう感情の話よ。それで? 紗希は妹をどう思っているの?」


 二つに分かれた道。

 最後になって、凛はそんなことを聞いてきた。

 鏡の過去を知って、何かしら心持ちは変わったのか、と。……おそらくはそんなことを意図して。つまり俄然やる気を見せてくれるかどうか、きっとそれが気になるのだろう。

「ひどい目にあったんだなって、そう思うよ」

「へえ……。それだけ?」

「気持ちになれば、悲しいことだと思う。鏡は確かに被害者だ。

 でも憐れみはしない。可哀そうだとも思わない。だって哀れみは、どうしようもなく自らが上に立っていると誇示する傲慢で、けれどそれを認めないままに安堵しているだけの、無自覚の侮蔑に他ならないんだから。

 だから私は……。家入紗希は探偵として、事件を解決するだけが正しいんだと思う。──ああ、それでも同情はするけどね」


 私の言葉への返事は「そう」と、だけ。妙に納得したようなその顔は、間違いを言ってしまった私の失敗というわけでもなさそうだった。むしろ、凛の予想した答えを言ったのかもしれない。

 そして、その会話を最後にして私達は別れた。


「──さて」 

 孤独な背中を見送ったのち、一言。

 私は聞くべきであったことを、凛にあえて聞かないでおいたことがある。真実は知ればいいというものではないから、私はその尋ねはしなかったのだ。

 

 そう。重要なのは誰から聞くか。誰の口から聞くべきなのか。

「家入達志……。父さんは私に何を隠してるんだ……?」

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