── ベラドンナの花の色 ③
「自分は他人であり、他人は自分であるという矛盾の自己同一。鏡に映る世界の常識は、私達のものとは当たり前が根底からかけ離れている。言うなれば鏡は、境界欠落者だ。
だから生きる社会にとって鏡の存在は異物でしかなく、その差異は自らが怪物であるという形で埋め合わせをしなければ、折り合いのつけられない段階になった。きっと鏡はその生き様を、他人の生き血を啜っているようなものと、そう自らで結論付けたんだろう。
──ああ、それは仕方のない事だったのだ。自分の存在が他人無しでは成立しないというのに、鏡に映る姿は自分を映さないのだから、その怪物の名は吸血鬼でなければならなくなったと」
「……待ってください。それは事実ではなく、比喩として怪物だということですか? 正体は実の吸血鬼ではなく?」
「あるいはそういう能力だ。私の実の妹は、目に映る姿が自分となるのだから、もしかしたら実際に吸血鬼がこの世にいるのかもしれない。存在しない姿は自分ではないのだからね。
……けれどそれは問題ではないのだよ、家入紗希。問題じゃないのだ。
妹のすべてを知っていればという私の後悔も、それも問題ではない。
問題はいつか鏡が我に返ったとき、取り返しのつかないことをしてはいないかということだ」
悲しげに遠く、切実に助けを求める声はそれでいて力強い。
助けなくてはいけないと、確かな意思の後押しが背中にかかっているようで、義務という言葉でいて、それよりもずっと優しい前向きな願いが込められている。
私達が怪物と称したのは、得体が知れないという気味の悪さからだった。
未知という恐怖と正体不明の素性は、語れることが多くない。形容や比喩はそれを補わんという策であり……今思えば、それは怯えから来ていた自分の、家入紗希の常識への落とし込みであったのだろう。
──しかし、今はもう違う。
確かな顔は無いにせよ、私と凛と同じ能力者にして、伊化左鏡という名を持った同じ人間であると分かっているのだ。
であれば怪物という言葉は人に向けるべきものではなく、伊化左先輩の悲しげな表情は、もしかしたら姉としての悲痛な感情を示していたのであろう。
「では藤原鏡……伊化左鏡は、何故最近になって自らをそのように定義づけたのですか? 藤原先生としての自己は、つまりそれも同様に、破綻を免れるための人格であるという事でしょうか?」
「あら、私はてっきりそれも見たのだと思っていたけれど……違うのね」
「凛は知っているのか?」
『知っている』という、その何故を解き明かしたいところだが、それは後回し。原因を知ることが先決であると、自らの好奇心はひとまず抑えた。
「知っているわ。紗希の言う通り、藤原鏡は能力を持った伊化左鏡という人格を隠すために作られた、破綻を免れるための人格よ。あ、姿もオリジナルだったかしら」
「そうだ。経緯は私も知らないが、精神負荷から守るための防衛のため、新しく人格が作られるという話があるだろう? その働きによるものが、君たちの担任の教師の姿だ。
幸か不幸か……鏡は他人との境界が無いおかげで、その多様な時間と経験の積み重ねが、歴史の教師に向いていたというわけだ。皮肉な話だよ」
「教師としての人格……。でも、それなのにどうして今になって?」
藤原鏡の人格が揺らぐ、自己防衛を突き破る一大事とは一体何があったのか。その原因を再び尋ねると、伊化左先輩はちらりと凛の方に目をやった。
それを見て、ピンとくるものが。──そういえばこの事件、いつから始まった?
伊化左先輩は答える。
「赤崎だ。悪化の発端は、そこの赤崎凛の自制心が足りなかったために起きた事件だ。君も覚えがあるかもしれないな、忘れていたことを思い出す、というものさ。
目の前で異常を見せつけられて、自分がどういう人間であったのかを思い出してしまったんだよ、鏡は」
てへ、と。凛はウィンクして見せ、全く悪びれる素振りを見せない。
「は、? 凛それって──」
今まで分かっていて黙ってたのか、と。そんな文句を言いかけ、しかし制止するように伊化左先輩は言葉を紡ぐ。
「──だが、自制心の欠落は知っていたことだ、とうの昔からな。
遅かれ早かれこうなることは、それも知っていた。だというのにいつまでも根本の原因に向き合ってこなかった私と鏡に、咎める資格は無い。強い言葉は八つ当たりだ。
事件の責任があるとすれば、それは私達に、なのだよ、家入紗希」
「断っておくとね、紗希。分かっていて黙っていたわけじゃないのよ。
それにそもそも藤原先生が伊化左鏡だというのも、つい最近知ったんだから」
「そう言うなら……うん、信じるよ」
『赤崎凛と犯人は別』そんな建前があったというのに、凛は正直に話した。その様子から事件に対する責任は感じているようで、それでも責めるというのは間違ったことであると、口をつぐんだ。
「私からの頼みは以上だ。既に事件の調査を始める段取りはできているらしいね? 家入さん」
「あ、ああ! はい。私と凛と、あと二人がそれぞれ調査するようにと……」
「そうなると、これは丁度いいわね。渡井君と谷内君に能力の話はややこしいでしょうし、私達で吸血鬼の問題は片づけましょう、紗希」
ぐいと肩を寄せ、いいでしょ、と。
話さないのは不誠実かもしれないが、タイミングはすでに逃しているので、今更説明するのも遅すぎる。昨日谷内に話さなかったのだから、もうこのまま突き進むべきだろう。
「私は普段、放課後には生徒会室にいるから、何かあればいつでも訪ねてくれ。
手立てはもちろん私の方でも模索するが、どうか……鏡が自らの力と折り合いをつけて生きられるよう、助けて欲しい。頼んだよ」
言って、伊化左先輩は深々とまた、確かめるようなお辞儀を。
見送る瞳は最後まで、こちらをじっと見つめていた。
──────────────
「行ったのではなかったのか? 赤崎」
「ええ。でも一つだけ」
家入紗希が教室へと戻った後、赤崎凛は別れ、再び伊化左令の元へと。
放送室前、赤崎凛と伊化左令。
休み時間の終わり際ということもあってか、職員室すぐ近くだというのに、行きかう人は慌ただしく足早で、中には廊下を走る者だっている。
彼らはひたすらに時計を気にしており、周囲に注意は向けられず、都会の無関心さながらに二人を気にする者はいなかった。
そして、赤崎凛は話す。
「後悔はない?」
「……」
言葉通り一つ一言の尋ね。
そんな僅かな問いでも伊化左令には重い言葉であったらしく、返答は慎重に、沈黙の時間は答えの真摯を意味していた。
「……ああ。後悔はない。
私が避けてきたことだが……いつか向き合う日が来ると、それだけは分かっていたことだ。同じ学校に居れば時間の問題だったからな。
──そして、今日がついにその日だったと。……そういうことだ」
「そう。でも令、妹がいつまでも姉の下にいるわけじゃないわ」
「何? 私が過保護だと? ──はあ、心を読むんじゃなかったな。面の皮が厚い女だよ、お前は。
火蓋を切っておいてそれは無いだろうと言いたい所だが、姉がこうあるべきだというのは古い考えなのかもしれないな。自分と向き合うことは、ついぞしてこなかった作業の一つだ」
「いい機会、ということ。
これは老婆心から忠告しておくけれど、立場が入れ替わるのは、万全にすべてが整った瞬間。絶頂と転落は紙一重なのよ、姉さん」
「は、不思議な話だ。妙に合点のいく話をするようになったな、凛」
「経験談よ。止める気は無いから好きにして」
「そうさせてもらおう」
踵を返し、階段を上っていく伊化左令。
かつかつという軽快な足音とその迷いのない足取りは、胸中に抱いた思いを自らに言い聞かせ、確かめ、決意を示していた。
『愛しい君へ、せめて恨みを忘れぬように』
──そんな願望。あるいは君が、幸せに生きられるように、と。
「……そうね、不思議な話。
私が送るべき手紙の色は──実はもっと淡く、毒づいた色だったのよ、紗希」
思い出をかみしめるよう、そう小さく呟き──赤崎凛もまた、教室へと戻っていった。
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