運命の女Ⅳ

 じん、とする痛み。

 繰り返す4月3日が始まったことを、嫌でも目の前に押し付けられている。

「うーん、君。怪我の割に落ち着いているね、何か格闘技でもしているのかい?」

 そう話す養護教諭の男の人。

 殴られた後の人間にしては、私の精神状態ははいささか普通ではないという。

 私はそういうのに経験豊富なのかと、そう聞かれている。

 

 どうだろう。

 人より多く今日という日を過ごす私は、「違う」と言われたのならそうだろうか。

 だが確かに。こう、悟ったと称するのが正しいのか、慣れ切ってしまった異様な状態は、僅かな時間でも凛と巴が生きていることに安堵のひとときを与えている。

 死が迫る彼女の顔を見て、もう避けられないのだと、それを知っているあろうことか私がそう思っているのだ。

「……まあ、嗜む程度に」

 呑気な回答はそう口にした私ですら──、ああ。そうか。

 幾度の彼女の死によって、私はもう常人ではないのだろう。

 

 ふっ、と。私は顔を下に向けた。

「おっと? どうしたんだい家入さん。もしかして痛かったかい? ごめんね、あともう少しで終わるからね」

 優しげな声は、たった今変貌した私の感情には毒でしかない。

 それに値する人間なら、決して浮かべることない考え。私の芯を揺るがす、ほんの一瞬でも浮かべてはならないことが、凄惨な現場を目撃したはずの私に対し、安堵と共に与えらえた。

 悪魔の囁き。

『何もかも放り投げていつまでも。この優しい残酷な世界に生きよう』

 

「あの、もう大丈夫です。ありがとうございました」

「え、ちょ?! まだ終わってないって!!」

 立ち上がり、保健室の出口に向かう。

 一刻も早く一人にならなくてはいけなかった。

 それが、本当に放り投げることになるのかもしれないと思いながらも、しかしここに居ては、優しさが心を殺してしまう。

 ……私には、一人になる時間が必要だ。

「サキちゃん!!」

「紗希!!」

 聞こえてくる二人の声が胸を締め付ける。

 死なせてしまった二人に対し、一体どんな顔で話せばいいのか分からない。何か言葉を紡ごうとする度、ちらりとよぎる死に顔が、私の力不足を、頼りなさを責め立てるのだ。

 無論。彼らはそんなことを言ったりしないと分かっていて、だからこれは自分自身への落胆であり、忌々しい過去への罵倒でしかない。けれど、だからこそと言った方がいいのか、無尽蔵に湧き出る悪意は、自己嫌悪に歯止めがかからなかった。

 ──私がいるから、凛が死ぬんじゃないのかと。


「今日は2人で帰るんだ。私は少し、やることができた」

「なら3人で……そうだよ、3人でやろうよ。僕等で一緒に──」

「巴」

 彼の優しさを無理にせき止める。

 私さえいなければと思った瞬間から、言葉一つでさえ、苦しくて苦しくてたまらない。この場にいるのが、共にいるのがこの上ない罪深いことのようにさえ感じる。

 だから。

「凛を、後は頼んだよ」

「あ、」

 ただその一声で、私は振り返ることなく保健室を後にした。


──────────────────

 旧校舎美術室前。

 一人になるにはどこがいいのかと思っていると、私の足は、私を無意識のうちにこの場所へ運んでいた。

 びゅうびゅう風の入り込む隙間の多い木造建築。まるで防音機能の期待できないというのに、だが水を打ったかのように静まり返ったこの場所は、何もかもを遮断させる隔絶された別世界なのかと、そう錯覚してしまう。

「どうして、私はここに」

 自問する。静寂に包まれながら、私は私に問う。

 何一つ解決することもできず、一瞬でも投げ出したいと思った私が、再びこの場所を訪れることに一体どんな意味があるというのだろうか。

「3回、3回もだ。一度でも失敗できないっていうのに、そんなにも私は、凛を殺した。それに……巴だって」

 だというのにまだ。ここに居るのは何故? 


「──ああ、そうだ。私は……きっと、怖がっている」

 怖い。何が? 私は何が怖いのだ。

 知らず、足は震えていた。寒さからの震えだと誤魔化すことのできない季節。私は明確に恐怖している。けれどそれは、またここに訪れなくてはいけないという理由だ。それは。

「負けていない。だって凛はまだ生きてる。なのに、ここで終わったら私は、私じゃない」

 探偵はすでに3度敗北している。

 1度目は人知れず。

 2度目はあっけなく。

 3度目は雨に降られて。

 しかし──4度目は無い。

 凛が生きている以上、次は無いと。私に見捨てるという選択肢はあってはならないのだから、それは当たり前のことだ。彼女の死、恐怖の理由はそこではない。

 何よりの恐怖。

 すべてを投げ捨てた時、そこに立っている人間は私ではないという事。

 私には「こうありたい」という思いがあるのに、そこを折ってしまったら、私という人間は存在してはいけない。

 だから……怖い。

「まだ私にもできる事はある、今日はまだ終わってない」

 ここに立っている私は、負けてないし、曲げていない。しかし逃げたが最後、その時こそ本当に私の敗北で、恐怖の実現を意味する。

 ただ優しいだけの世界に抱かれることとは、平穏とは程遠い明日の姿なのだ。

「そうだ。だから──」

 

「犯人は現場に戻る。やはりここに居たか、家入」

「な、谷内!?」

 独白の最中。

 聞こえてきた声は、ここにいるはずのない男、谷内仁。

 私を殴って先生に連れていかれたはずの彼は、なぜかどうして旧校舎美術室前に。そして、こうして私に声をかけている。

 結局谷内は、今回の事件にどう関係し、私に向けた怒りが何に対するものであったのか。それを不明にしたまま、いつの間にか埋もれていった謎が私の行動の変化で変容する、今日という日に露になっていく。

 被害者。そして、現状最も疑わしき人物。谷内を犯人であるとするのがもっともらしい答えではあるのだが、しかし以前の会話を思い出すと、そうだと、素直に頷けない所がある。


 ──彼は言った。この事件は私が始めたことだと。

 春休み3週間前から始まったこの事件は、どう考えても私から始めたものではない。すべては赤い手紙から始まった事。とすると、彼の言葉には矛盾がある。

 そして。

 矛盾と言えば何よりの矛盾は、私を人殺しだと罵倒した人間が、だというのに凛と巴を殺す、という事。あの雨に降られた今日に見た、未だこびりつく死の光景は、この男が起こしたものだというのは、たとえ彼が狂人だろうとにわかには信じがたい。

 何故なら少なからず、赤い手紙に嘘は書いていなかったのだから。

 流れる静寂。

 じっとこちらに視線を向ける谷内は、なにかこう、余裕を持った表情をしているように見える。

「お前は、何なんだ。何故私に執着する? 目的は?」

 被害者の一般人。最悪は犯人。どちらに転ぼうと私では知りようのない、動機という名の目的を問いただす。

「……いや。お前の質問にはもう答えない。さっきまでたくさん話しただろう。これから俺がするのは、お前を追い詰めたという事実を伝える。ただそれだけだ」

 無回答。私の質問に、はあと。しっかりと聞こえるくらいの大きいため息をついた谷内は、冷たくそう言い放った。

 そして言った。追い詰めたと。さながら猟で獲物を追い込んだと、そんな調子で言ってのけた言葉は、事件解決を望む探偵に向けるべき言葉には聞こえない。むしろその真逆、犯人への勝利宣言と言う方が正しい文言だ。

「お前の言葉にまんまと乗せられてしまったからな。さっきは少し熱くなりすぎた。だから反省して、淡々と事を済まさせてもらう。人の記憶を奪う前に、な」

「記憶? な、待て。赤い手紙の事件、お前はどこまで知ってるんだ。もし知ってるんだとしたら、なんで私にあんな怒りを向けていたんだ? おかしいだろう。お前だって被害者なのに、それを解決しようとしている人間を攻撃する意味がどこにある? 教えてくれ、お前は──」

「答えないといった。質問は無駄だ。白々しい言葉も聞くに堪えないね。だから、」

 言って、彼は学生服のズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

 そして数秒の間を置いて、静止画を、画面をこちらに向けた。

 数枚の写真。そこに写っていたのは……下駄箱。

「写真だけじゃな。動画もある。そうだ。答えはすべてここある、この携帯にな。本当に、最初からこうできていれば、誰も死ぬことなんて無かったっていうのにな。こんなに遅くなっちまった」

「──こ、れは……」

 写っていたのは確かに下駄箱。しかし加えて、もっと大事な情報がそこにあった。

 ぴとりぴとりと、閉じられたすべてが氷解する。

 今日という日を誰よりも知っていた私は、それ故、近すぎたために気が付くことができないものを知ったのだ。

「やっとここまで来た。長かったよ、俺の記憶を弄りやがって。なあ、家入紗希。

 ──いや、赤い手紙事件の真犯人さん」

 コマ送りのように見せられた一連の写真は、どこにも否定の余地のない純粋な真実を伝えている。『』捉えられた瞬間は、そんな決定的なものであった。

 だからこれは、つまり。


「全部、私が始めたこと……?」

 ひどい頭痛がする。

 私はこの瞬間、欠落した記憶をすべて取り戻した。

 人は欠落に疎い。なにせ無いことによる違和感が無いのだから。そしてカタチがないのモノを、目に見えないモノをどうやっておかしいと思えるというのだろう。

 ……私が、自分で予告状を送っていただなんて。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


  


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