こんにちは、狂文
『旧校舎 美術室』
「……ふざけんなよ」
朝の陽気。
昨日の夜は少し雨が降っていたのか、おかげで空気がとても澄んでいるように感じた。それと昨日、久しぶりによく眠れたこともあって、これまでにないくらい気分良く、家を出た私。
──しかし。そんな舞い上がった私を、現実は、赤い手紙の送り主は、無慈悲にも叩き落す。
下駄箱に一枚。「美術室」とだけ書かれた、しかし真っ赤なバラを思わせるそれ。もう一目見た瞬間から分かる。
それは紛れもなく、あの忌々しい恋文だった。
「サキちゃんー! おは、……よ?」
器用にも後ろ姿から私の機嫌を察知した巴は、無遠慮に肩を叩くことを止めた。その代わりに巴は、静かに歩み寄ってくる。
「……サキちゃん?」
「……」
返事はしなかった。否、できなかった。そんな余裕はなかったから。
今、私を支配しているのはこの恋文。
それ以外考えられない、また付き合わされるという怒りだけ。だが何より腹立たしいのは、自分がどこか期待していたという事実と、してやられたという屈辱。それらすべては、自分の内から湧き出た気色の悪い矛盾だ。
変えようのないその事実は、腐り、黒く濁ってしまった私の臓物を引っ搔き回して苦しみに喘がせる。
私の意思すべて、何もかもに至るまで──すべて、すべて。こうなることが思惑通りだと笑われているかのようだった。
「……おい、返事しろって」
ぽんと、手紙を手にしたまま固まってしまった私を見て、いい加減心配になったとばかりに巴が肩を叩いてきた。
途端に、這いつくばったようなどうしようもない無力感は消えてゆき、意識が引き戻されて我に返る。
「──おはよう。早速だが美術室に行くぞ、巴」
「は? あ、うん」
ああ、そうだった。それが何だというのか。
愚かにも過去に希望を持ったがための、当たり前の光景が目の前に広がっているだけ。なら例えすべてが支配されていようと、手のひらの上で踊るさまが、いかに滑稽で笑われようと、それ全部を振り切ってみせればいい。
私の醜態など、今となってはただの過去。そして過去の醜悪さは、そんなもの今までもさんざん見てきただろう。
──そうとも、どうということもないさ。
──────
旧校舎三階の美術室は、新校舎に新しく美術室が設けられたことでその役割を終え、今は傷だらけの木製机が残るだけの空き教室となっている。
使い古された教室は、週に一回、生徒が交代で掃除をしているため、古くとも埃まみれというわけではないが、さすがに年季の入ったドアは立て付けが悪く、開けるのにも一苦労した。
鍵はかかっていなかった。
「ったく……。こんな場所まで呼び出すとか、何がしたいんだよホント」
「でもこっちの美術室入ったの久しぶりだね~、1年生の時一回入ったきりだ」
懐かしいとは違う、こんな場所もあったなと、そういう類いの思い返しが頭巡る。教室の中を見渡すと、画材や彫刻あるいは人体の構造について書かれた美術本など、そういったものはすでに棚からなくなっており、ガラリとした空洞が点々とあるばかりだ。
「この教室に大した思い入れはないけど、なんかこれはこれで寂しいな……」
この感じはそう、あれだ。よく知らない有名人とか知り合いが、何かの拍子で急死したとか、それを聞いた私が感じるやつ。今までどうとも思っていなかったことが、気になってしようがないやつだ。
「ねー、新しい美術室めっちゃきれいだけどさ、なんかこう……違うんだよねぇ。あの、あれ、歴史? がないっていうのかな。新しすぎてさ、汚れてない美術室は違和感すごいんだよね」
「汚してなんぼみたいなとこはあるかもな」
『芸術は爆発だ』なんて言葉もあるくらいだし、巴の違和感とやらはあながち間違いではないのかも。
その後も懐古感に浸る巴。そんな彼を傍目に、私は呼び出された理由を探していた。
一見、ただ机だけが残る空き教室。
だが思い出の中、少し過去の教室を覗くと。この場所には記憶と違う異物が混ざっていることを、私は見つけ出した。
「……赤い手紙」
窓側、一番左の机の上に、見慣れてしまったそれはあった。
カーテンが中途半端に閉められていて、手紙が置いてある机の上には陽の光が届いていない。旧校舎と新校舎の境界線のように、陽と影とで分かれている。
ふいにあちら側とこちら側、踏み越えてしまえば、もう後戻りはできないと、荒唐無稽な思考が頭をよぎった。どうしてだろうか、子供のイタズラがそんなわけがないのに、分からない。なぜだろうか……。
「どうしたの?」
知らず、重くなっていた足取りを抜き、巴は進んだ。
──その声で、私は足を踏み入れた。
手紙に書いてあったのは、とても単純なことだった。
簡単で簡潔に、はっきりと。思わず裏があるんじゃないかと勘繰ってしまうくらいの単純さ。手紙に、無機質な明朝体で打ち込まれた文字は、どこか機械的で人として何かが欠落した、無慈悲にすら感じさせる事実の表象。
……それは、ただの一言。
「『赤崎凛は死んだ』」
赤い手紙は、情熱の赤い色とは違う、血を思わせる不吉な色。ぬらりとまとわりつくような死の予感は、すでに赤崎を手にかけたと囁く。
恋とは程遠いその執念は、もう愛を通り越したのだ。
血もしたたる赤い手紙。
もはや狂気と呼ぶにふさわしい。
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