勉強しよう!(2)

 馬に飼いを付けて戻って来たら、何だかぐったりしてしまった。

 マリは、いつも以上の疲れを感じた。よろよろと食堂に入り、夕食の準備を手伝おうとしたら……。

 リリィが、机に置きっぱなしになっていたハールの書類に目を落としていた。お玉を持ったまま、真剣に読んでいる。

「あ、あれ? お母さん。何か臭いよ」

「え? あ、あああ!」

 リリィは慌てて台所に飛び込んだ。

 料理が得意のリリィには、とても珍しいことではあるが、今日のイモの煮っころがしは焦げになった。

「ああ、大失敗」

 リリィは、情けない声をあげた。

 鍋の底の焦げを、がしょがしょ落としながら、マリは聞いた。

「お母さん、いったいどうしたの?」

「ああ、いえね、あの話。とても面白くてね……。何だろうと見ただけだったのに、ついつい、夢中で読んじゃったのよ」

 やや焦げ臭いイモを大皿に盛りながら、リリィはまるで少女のように頬を染めた。


 カシュの家の夕食は、いつもお祭り騒ぎだ。

 何せ、カシュ一家と部下たちの家族も総出の、にぎやかな食堂なのだから。

 使用人たちも家族単位で夕食を作って食べることもできるが、そのようなことをする者はいない。リリィの料理は美味しいし、みんなで食べれば楽しいし、食費は浮く、作る手間もいらないから、常に大皿料理でわいわいになる。

 部下の妻たちが食堂を手伝うこともあるが、時間のかかるものは、だいたいリリィが一人で準備していた。

 マリは、学校から帰ると、リューマの少年たちと馬の飼い付けをし、その後、食堂の手伝いをして、食事をし、お風呂に入ってから寝る日々だった。

 勉強の大切さを感じるようになってからは、風呂の後、勉強をリリィに見てもらったりしていたのだが、きちきちで大変だった。

(これじゃあ、全然追いつかないし、大変だよ)

 マリは、日頃、成果のあがらない勉強方法に苦しんでいた。

 だから、学校で手取り足取りのハールの授業は、マリにとってとてもありがたかった。


 なのに……。


「マリ。これって、ハール先生の字でしょ? 本当にきれいね。それに、文章も読みやすいし……」

「え? あ? うん? そ、そう?」

「それにこっち。これなら、マリには簡単すぎるかも知れないけれど、レトにはちょうどよさそうよ」

 レトは、リューマの少年で、小柄でおとなしい子だ。

 リューマ族は、勉強しない。というか、勉強をすると、小賢しくなって、鼻持ちならなくなると思い込んでいて、勉強したり、している人を侮蔑するところすらあった。

 だから、仲間の誰もが、マリが勉強しはじめたことをよく思わなかった。でも、レトだけは、マリに「僕も勉強したい」と言ってきた。それは、彼にとって、とても勇気のいる話だった。

 カシュも勉強を奨励し始めたので、レトは夜にマリと一緒に勉強するようになった。

 だが、リリィは悩んでいた。

 全く文字を知らない子に、どうやって教えていいものやら? と。

 マリよりも熱心なくらいだったので、少しずつ読み書きを覚えてはきたが、それからの一歩が進まなかった。彼にとって、勉強は血のにじむような苦しいものにちがいない。

「ねえマリ。これ、使ってもいいかしら? こういうふうに教えていけば、レトも今みたいに辛くないと思うの。楽しく勉強ができるわ」



 その夜、マリはベッドの中で、ハールの文章に目を落とした。

 いままでにくれた文章は、この書類の中のほんの一部だったのだ。マリは、続きを見つけた。その続きは、三種類あった。

 マリは、声を出して読んでみた。途中、読めない部分があったら、別の紙を見ればいい。そちらには、もっと簡単な文章で、同じ内容が書かれている。

 掌になぞって、文字をまねてみた。この書類を書くには、かなり時間がかかっただろう。マリの掌の字は、だんだん大きくなり、乱れてきたが、ハールの文字は、まるで判を押したように変わらなかった。

「あれ? これって……わからないよ」

 マリは、読めない単語に頭をひねった。別の紙をめくったが、やはりわからない。

「うーん、これ、何だろう?」

 枕に顔を埋めて悩んだが、思い出せない。何だか、涙が出て来た。

「ハール先生、わかんない。マリ、わかんないよ……」


 大丈夫、難しくないから。

 ほら、ここはね――。


 ふと、ハールの指先を思い出す。

 文章をひとつひとつ、丁寧に示してくれる指だ。

 だが、その指が示している文字が読めなくて。


 ――先生、お願い。帰って来て。

 マリ、わかんないことばかりだよ。

 もう二度と、会えないなんてこと……ないよね? 先生。

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