ハールの選ぶ道(2)

 祈り所でラン・ロサにあった時、彼は既にハールの決意を察していた。

 神官の証ともいえる髪を切り、清々しい顔をしていれば、たとえ心話に長けた神官でなくても、その心はわかるだろう。

 ラン・ロサは、灰色の顔にたくさんの皺を浮かべて微笑んだ。

「初めてここへ来た時、あなたはまるで迷い子のようでした。でも、今のあなたは、まっすぐに私を見るのですね」

「はい、神官として足りない物が何なのか、ここに来て初めてわかったのです」

 ハールは深々と頭を下げた。だが、その姿には、かつての自虐的なまでの卑屈さはなかった。

「私は、言葉の矢を飛ばすことができず、神官となることができませんでした。毎年同じ失敗を繰り返しているうちに自信を失いました。そして、今度ことは……と、死ぬ気で努力したのに、やはり駄目でした」

 ラン・ロサは、やや下目にハールを見た。それは、面白いことだとでも言いたげに。

「あなたの能力を思えば、実に不思議なこと。学び舎の同胞も、さぞや落胆したことでしょう」

 そう。

 どの教授も学長も、ライバルさえも、落胆した。

 ハールは、努力家の優等生で、常に主席だったのだから。

 だが、ハール自身が一番ショックを受けたのだ。自暴自棄になるほどに。

「私は、能力不足なのだと思いました。でも、結局は勉強不足だったのです」

 それがわかった時、ハールは自信を取り戻す事ができた。


 そして、それをわからせてくれたのは……。



「マリこそ自分の能力を眠らせたまま、何もしないのかい?」

 マリには思いもよらない、いきなりのハールの反撃。

「ちょ、ちょっと! それって、あたしには関係ないだろ!」

 一瞬、マリは口をつぐんだが、すぐに言い返してきた。

「あんたは、ムテの神官になって生きる! それしか道はないだろ! あたしは、あたしだ。リューマ族みたいに生きるだけだ!」

「でも、マリはムテ人だ」

 この真実は、常にマリを追いつめる。リューマ族らしくありたいがために、マリはムテであることをないがしろにするのだ。

「! ち、違うよ! た、確かにムテだけど、あたしは……」

 案の定、マリの目は潤んできた。

「……あたしは、リューマっぽく生きるんだから!」

「でも、ムテ人だよ」

「だ・からぁ! あたしはぁ!」

「だからって、自分がムテ人であることを否定してはいけない」

 ハールは、ポケットからマリの作文を取り出した。マリは、鼻先に突き出された作文を、臭いをかぐようにして見つめた。

 少しは、内容に記憶があったらしい。

「マリが書いた作文だよ」

 作文をじっと見ていたマリが、大きく首を振った。

「こ、こ、こんなの、知らない! あたし、書いていない!」

「ああ、マリは書いていない。私が書き換えたんだよ」

 ハールは、マリが書いたほうの作文も出した。そちらは、マリにも見覚えがあったらしいが……。

 奪い取るようにして、ハールの手から取り上げて、マリは自分の作文に目を落とした。

 そして、力なく作文を落とした。

「……これ、読めない」

 なんと、マリは過去に自分が書いた文章も読めなかった。

 あまりの酷い文字に、マリ自身、大ショックだったのだろう。呆然としていた。

 長身を折って、ハールは作文を拾った。だが、拾ったあとも、立ち上がらなかった。

「この作文を書いた時よりも、マリは字が読めるようになったからだよ。書き直したほうなら少し読めて、自分で書いたほうは全く読めなかった」

 マリよりも、ちょっと低い目線になって、ハールは言った。

「学校にはこないけれど、マリは、ちゃんと勉強して、文字を少しずつ勉強していたんだね?」

 マリの顔が、ぱっと赤くなった。

「あ、あ、あ、あんたにはかんけーねーだろー!」



 ――作文。


 親父は、あたしらに馬小屋を手直しして住ませてくれた。

 そこには、まだちっこい馬のポーニがいて、しばらくは同居した。あたしも、お母さんも、ちっちゃいとはいえ、ポーニが怖かった。

 お母さんは、あたしたちはムテだから、ポーニとは仲良くなれないって。馬は、心話を持たない生き物だから、心を見せないんだって。馬は、リューマ族やウーレン族の人にしか、なつかないんだって。

 リューマ族のように接してみても、馬は、ムテのあたしに馬鹿にしてかかるんだ。



「だ、だ、だいたい、あんたは学び舎に戻って、その大好きなお勉強すればいいじゃないか! あ、あ、あたしは、勉強なんて大嫌いだ! あたしには、不要だよ!」

 そんなはずはない。マリは、必要を感じて陰で勉強していた。

 何もしていないとしたら、少しも文字が読めないはず。

「学び舎で、私は充分学んだ。でも、ここにはまだ私が学んでいない事がたくさんある」

 ハールは、拾った作文に目を落とした。

「たとえばマリ、君の作文の中に……」

 ハールは、一節を読み始めた。



 でも、ポーニはあたしとお母さんに優しくしてくれた。

 一緒にいる間、餌をあげたり、ブラシかけたりしてあげていたら、だんだんポーニのことがわかるようになった。

 で、少しずつだけど、他の馬たちのこともわかるようになってきた。他のリューマの子たちと同じように。

 あたしもお母さんも、心を形あるもののように思っていた。心を澄ませば自然と伝わってくるものだって。だから、馬には心がないんだと思っていた。

 でも、違った。

 簡単に伝わらないものだから、わからなかっただけなんだ。

 ムテのあたしだって、リューマ族の人たちのように、心を込めて世話をしたら、馬はちゃんと心を開いてくれる。

 大事なのは、リューマ族だから、ムテだからなんかじゃない。

 馬の気持ちを考えてあげること。自分から歩み寄ること。そうしたら、ムテもリューマもない。誰にだって答えてくれる。

 それがわかって、とてもうれしかった。

 実はまだ、怖い馬もいる。時々、心を閉じて、噛み付こうとするヤツもいるんだ。

 けれど、あたしは馬が大好きだ。

 あたしは、いつか、もっと馬に歩み寄る。



「は、は、恥ずかしいから読むなよ! ど、ど、どうせ、ひでーって言うんだろ! 先公は、みんな賢くてお偉くてご立派だから、あたしの作文なんざ、くそくらえって言うんだろ!」

 作文を奪い取ろうとして、マリはハールに襲いかかった。一瞬の差でハールは立ち上がり、マリには手が届かなくなってしまった。

「私は、全然賢くも偉くも立派でもないよ。だから、マリが知っている大事なことの、百分の一も気がつかなかった」

「お、お、おかしなこと言うな! 頭いいくせに! あんたなんか、学び舎に帰って、さっさと神官になれよ!」

 何度も跳ね上がり、やっとのことで、マリは作文をハールの手から奪い取った。そして、くちゃくちゃにして破ろうとし、無理だと気がついて口の中に突っ込んだ。

「お、おい! このインクは食べられない! 吐き出しなさい!」

 ハールは、慌ててマリの口に手を入れた。

 紙質がよかったためか、作文はやや湿ってよれよれになったが、破れる事なくマリの口から救い出された。

 一瞬、ハールの手が止まった。指先がマリの唇に触れたのだ。目が合ったが、マリがプイとそっぽをむいた。

 ハールは、呼吸を整えた。

「……神官に……なるつもりだった。ずっと。でも、落ちこぼれた」

 そっぽを向いていたマリの肩が、ぴくんと驚きに震えた。そして、おずおずとハールのほうを見た。

「……う、そ」

 ハールは苦笑いした。


 あの時、嘘であったなら……と何度思っただろう? あの天井を見上げながら。

 あの時、人生は終わったと思った。すべて、道は閉ざされたと。


「神官であるなら、言の葉の矢を送ることができるはず。でも、私にはできなかった」

 マリは、じっとハールを見つめていた。その瞳は、大きく見開かれたままだった。

「私は、自分の言葉を送る力が足りないと思っていた。でも、そうじゃない。相手を理解しようとしなかったから、受け取られもせず、受け取れもしなかった」


 ――大事なのは……歩みよること。 


「マリは、私にとても大事なことを教えてくれた。私も、マリに教えたいことがある。一緒に学びたいこともある」

 マリは、口をふるわせていた。

 またバカヤローと叫んで、走り去ってしまうかも知れない。

「勉強して世界を知れば、リューマ族とムテ人の間だって変えられる方法が見つかるかもしれない。マリが大人になった時、両種族の橋渡しになれるかもしれない。私にとっても、学び舎で籠るよりずっとマリといたほうが、学べることがあると思う」

 マリの手を握ろうと自然に手が動いたが、躊躇した。また、叩かれそうな予感がする。

 でも、しっかり捕まえておかないと、また逃げられそうな気もして――。

 ハールは、マリの手を両手でしっかりと握りしめた。

「マリ、一緒に学ぼう」

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