希望を胸に抱いてー日記

 ○月○日――。


 明日から学校に復帰する。

 準備した教材や資料を、何度も何度も見返してしまう。

 その合間に、この日記を書いている。


 もう夜も遅い。

 早く寝なくては寝坊してしまいそうだ。が、興奮していて寝付けるかどうか。

 私には、明日が【椎の村・教師】いや、椎の村人としての初日のような気がしてならない。期待と不安で、わくわくしている。

 思えば当然かも知れない。

 私ときたら、五歳の若さで学び舎に入ったきり、祈りの儀式の準備にかり出される時以外、学び舎構内から出た事がないのだから。

 世界のすべてを知ったような顔をしてきたが、その実、世界のすべてから隔離されていたようなものだ。

 まるで、時間が止められたように、私はこの世界では五歳のままなのだ。

(ある意味、マリのほうが大人かも知れない)

 ここにきてしばらくは、ただこなすようにして日々を過ごしてきた。だが、やっと、それを楽しむゆとりができたように思う。

 目にうつるものすべてが物珍しく、新しい。

 昨日、知らなかったことが、今日は私の中で息づいている。今日、知らないことも、明日にわかるかも知れない。

 新しいことを学ぶのは、教師である私だって同じなのだ。



 あの時――。

 せいぜい気持ちが伝わって、「考えておくよ」程度の返事がかえってくるのだと思っていた。

 正直、またマリに叩かれると思った。散々ののしられて、逃げられると思った。

 私は、女の子の気持ちを汲み取るのが苦手なようだから。

 握りしめた手を振り払われた時は、青あざがないほうの左を叩いてくれ! とさえ、願った。かなりマシになったとはいえ、まだまだ顔は痛かった。

 だから、私を叩くだろうその手が首に巻き付いてきた時は驚いた。

 確かに私はたくましいとは言いがたいが、小さな少女に押し倒されるほど柔ではない。ふいにマリが飛びついてきたから、耐えられずに尻もちをついただけだ。

 何事かと思った。


「……あたし。授業についていけるかなぁ?」

 ぼそっとマリが言った時、うれしさよりも動揺のほうが大きかったかも知れない。

「え? あ? 大丈夫」

 しどろもどろになりながらも、返事をしたら。

「あたしの実力を知らないのに」

 と、鋭い指摘をされてしまった。

「実力がどうでも、責任を持って教えるから……」

 その時の、少しはみかんだような微笑みが、脳裏に焼き付いている。

「先生、ありがと」


 あんた、でもなく、てめえ、でもなく、先公、でもなく、くそ野郎でもなく。

 ――先生。


 なんて素敵な響きなんだろう。

 私は、マリの唇がやや舌足らずに恥ずかしげに発音する様を、ずっと見つめていた。

 その、ほんの短い時の間が、まるで永遠に間延びしたかのように。

 銀色の向こうに、花が咲き乱れたような、明るい背景が広がって見えた。

 それは、私の心象――おそらく、マリの将来を暗示しているに違いない。



 今更になって、どうして、急に私に飛びついたのだろう? なぜ、先生と呼んでくれたのだろう? と、不思議でたまらない。

 その気持ちを聞く間さえ、逸してしまった。

 マリは、急に抱きついたのと同じように、急に私から離れていった。そして、何も言わず、脱兎のごとく走りだしたかと思うと、再び急停止して、振り返った。

「約束だよ!」

 そう言い残すと、今度は一目散に走り出し、二度と振り返らなかった。

 私といえば……その約束に無意識のうちに片手をあげて答えていた。そして、しばらく手をあげたまま、唖然としていたのだった。

 私は、何もかも経験不足で、ムテの力で心は読めるのに、誰にでもできる別の心の読み方ができないのだ。

 戸惑ってしまう――。

 マリの行動は、いつものように悪態をつきながら去ってゆくよりも、ずっと難解で。

 何もわからないうちに、手をあげて答えた自分自身さえ、理解不能。

 アリアがそばにいたら、大笑いしながら解説してくれただろうに。


 もう眠らなければならない。

 でも、もう一度だけ、教材を確かめてからにしよう。


 あの子との約束を果たすために、本当にこれでいいのか? この方法でいいのか?

 困惑しないだろうか? 微笑んでくれるだろうか? あの声で、また「先生」と呼んでくれるだろうか?

 そう思うと……ドキドキしてなかなか寝付けないのだ。

 明日をうまく乗り越えて、私はやっと「先生」になれる。

 明日こそが、始まりの日だ。


 今度こそ――おやすみなさい。




(銀の少女・fin)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る