ハールの選ぶ道(1)

 鐘の音は、今が正午であることを知らせる。

 その一つ目の音が響く時、ハールは重たい祈り所の扉を開けて外に出て来た。

 この鐘が鳴り終わる頃には、ムテ人たちがそれぞれの仕事の手を休め、お昼を取りに出てくることだろう。だが、まだ街の広場に人気はない。 

 石畳に残る水たまりに、街の景色と青い空が映り、キラキラと光っている。思わず目を細めた。

 長い間、曇っていた心も晴れ渡ったように清々しい。見上げると、まだ虹が残っている。ふっと肩の荷が下りたような気がした。


「え? ええーっ!」

 押し殺した声だが、ハールの耳にマリの声が届いた。

 祈り所の戸口のそばに、日陰を作るために植えられた樹木がある。その陰に隠れているが、頭隠して……である。

「マリ、こんにちは」

「ぎょえ!」

 ハールが声をかけると、マリは返事とも言えない声をあげた。

「もしかして……私に用事があった?」

 どう見ても、祈り所からハールが出てくるのを待っていたような、それで隠れていたような。

 でも、いつもとは違うハールの様子に、思わず驚きの声をあげてしまったのだろう。その証拠に、返事ともならない言葉が、マリの口から出て来た。

「よ、よ、用事なんてないけれど、髪! 髪どうしちゃったのさ!」

 ハールは、ふふふ……と笑った。

「洗うのが大変だから、切ってみたんだ」


 日記を書いた後、ハールはまず髪を切りに行った。理容師も、かなり驚いていた。

 神官は、常に髪を長く保つ。最高神官に至っては、髪にはさみを入れることすら許されない。学び舎に戻るはずのハールが、能力が宿ると言われる髪を切るなんて、考えられなかったのだ。

 さっぱりした後、ハールは祈り所に向かったのである。

 ちなみに、理容師は切り落とした髪をすべて拾い集め、大事にしまった。ハールが神官になった暁には、かなり価値の出るものになるだろう。


「切ったって……そんな!」

 マリも目を白黒させた。理容師よりも、驚き方が派手だった。

「え? 似合わない?」

 マリが驚いている理由はよくわかる。だが、ハールはとぼけてみせた。

「似合うも何も……。あ、あ、あんた、学び舎に戻るんだろ? それで問題ないの?」

 ハールが学び舎に戻って神官になるだろうことは、村中の噂だった。

 ハールが去ることは残念だったが、村から神官が出ることは、とても名誉なことである。たとえ、よそからきた者で、わずかな間の村人だったとしても。

 ハールは、軽く首を振った。肩にやっと届くくらいの髪が、かすかに揺れた。

「まさか。髪の短い神官なんて、問題がありすぎですよ」

「じゃあ、何で!」

 食いつくように、マリは身を乗り出した。

「今、ラン・ロサ様に挨拶してきました。この村に置いてください……とね」

 身を乗り出したまま、マリはあっけにとられ、口をぽかーんと開けた。

「私の家は、村の旧市街ですから、共同の井戸を利用するしかないんですよ。髪が長いと洗うのが大変でね。これで、さっぱりしました」

 それに、頭も少し軽くなった。足取りも軽く、ハールは家に向かって歩き出した。

 マリは、目を白黒させたままだったが、ハールが歩いていくのを見て、慌てて後を追った。


「ちょ、ちょっとぉ! まってよー! それって、どういう事よ!」

 マリの声が背後から響き、靴音がコツコツと後を追ってくる。

 ハールは、少しにやにやしながらも、振り返る事なく歩き続けた。笑っていることを知られたくなかった。

 案の上、マリはハールの今後が気になっているらしく、ハールの説明を聞きたくて、家の前までついて来た。しかも、ずっとハールに話し続けながら。

「どういうこと? あんた、神官になれるんだろ! じゃあ、こんな村にいる必要ないじゃん! 戻ったらいいじゃん! ねぇ、ちょっと聞いてんの?」

 黙って背中で聞いていたが、なぜか笑えてくる。

 ハールが笑っているとも知らず、マリは矢継ぎ早に言葉を投げ続けた。

「ねぇ、ねぇってばさ! あんた、そんなんでいいと思っているの? あんたの将来を捨てていいの? こんなところで、腐っていていいの? ねぇ、ちょっと! 真剣に聞いている?」

 無視し続けたら、マリの声はだんだん苛立って来たようだ。

「ちょっと! このくそったれ! 人の話、ちゃんと聞けよ! せっかくの道が開けたんだよ! みんな、すごいって言っていたんだ! それを……何の気かしらないけれど、自分の才能、つぶすつもりかよ!」

 ハールは、真顔になった。マリの言葉が気に障ったのではなく、笑いを押しこらえたのだ。

「ちょっと、あんた!」

 マリが思わずハールの背中に触れた時、ハールはくるりと向きを変え、マリと向かい合った。

「そういうマリは、どう?」

 思わぬ逆襲に、マリは言葉を失った。

 ちょうど、ハールの家の前についたところだった。

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