言の葉の矢(3)

 暖かい日だ。

 緑が香り立つ。

 まだ、アリアの家で寝たきりのはずのハールは、川辺の草むらに寝転がって青空を見ていた。

 すぐそばで小花に白い蝶が止まり、蜜を吸っている。ハールは体をひねってその様子を見ていた。顔の腫れがひいたので、目もよく見える。蝶の羽の筋までもがはっきりわかる。

 興味深かった。図鑑では知っていたが、実際にこのように近くで見た事はなかった。蜜を吸い終わって、吸収管がくるくると巻き上がるのを見て、ハールは目を細めた。

 すっと飛んで行く蝶につられ、ハールは上半身を起こした。

 遠くから少女たちの歌声がかすかに聞こえる。見ると、遠くに人影がいくつか。

 あれは、椎の村の洗濯屋の少女たちだ。天気がいいので、川で洗い物をしながら、はしゃいでいる。遠いので、顔は全く見えないが、声からして楽しそうだった。

 洗濯は洗濯屋に頼めばいいということを、やっと知った。今は、洗うものもなく、少女たちに声をかける必要もないが。

 ハールは、また横になった。

 目をつぶると、暖かい光がまぶたの上を温める。今まで見えていたものが、心で見えてくる。

 蝶は、別の花に止まったようだ。少女たちは、そろそろ川からあがる頃だ。さらに遠くで、シアが子供たちの世話をしているのを感じる。学校は、この先にある。

 ラインヴェールは……。


 ふと、目元が暗くなり、ひんやりとした影が落ちた。

「こんなところにいたのですか? ハール」

 目を開けてみると、銀の人影が日差しを遮っていた。ラインヴェールだった。

 ハールが体を起こすと、ラインヴェールは隣に座った。

「アリアのところへ行ったら、家に戻ったと聞きました。なのに、まだラン・ロサ様の元にも行っていないようですし。どうしたのかと思っていましたよ」

「……いえ、すぐに挨拶に行くべきと思っていたのですが。まだ、青あざが残っていて、酷い顔なので……」

 青あざは事実だった。シアならまだ顔を背けるだろう。だが、ラインヴェールは、ハールの顔をじっと見つめて、やれやれという顔をした。

「ラン・ロサ様に会わないのは、そんな理由ではないのでしょう?」

 ハールは、少し頬を染めた。

 まだ寝たきり。まだ酷い顔。まだ外へ出られない……。

 などと、理由を並べ立てたところで、ラインヴェールには言い訳ができない。

 ラン・ロサに会うということは、学び舎に戻るということでもある。ハールにはまだ踏ん切りがつかないのだ。

「学び舎に戻りたくて仕方がなかったんです。でも、いざ帰れると思ったら、何かが引っかかって……」


 ハール自身、それが何なのか、全く見当もつかない。

 ただ、今、喜び勇んで学び舎に帰ったとしても、かつて味わった挫折をもう一度味わうだけのような気がする。


「私は学び舎で落ちこぼれたのですから……臆病風に吹かれているだけなのかも? 同じ失敗を恐れているのかも知れません」

 必死に勉強した日々。だが、結果はでなかった。

「神官の子供として、私には何かが欠けているような気がして……不安なんです」

 ラインヴェールは、黙ってハールの告白を聞いていた。

「……そうなんでしょうかねぇ?」

 ラインヴェールは気のない受け答えをして、ハールがしていたように、ごろりと芝生に横になった。

「そう……だと思っているんですけれど」

 そういいつつも、自信がない。ハールには、説明がつかないのだ。


 ――あれだけ泣いて帰りたがった学び舎に帰れるというのに。

 なぜ躊躇してしまうのか、自分で自分がわからない。


「ハール、もしかして、この村が気に入って、帰りたくないんではないんですか? だから、神官として自分は駄目だと言い聞かせている」

「え? まさか……」

 ありえないと言おうとして、ハールは慌てて口を抑えた。

 椎の村人に「まさか」は失礼だろう。だが、ラインヴェールは目を閉じて、ふふふ……と笑った。

「私も学び舎にいたことがありますからね。あそこのつまらなさはよくわかります。それに比べて、最初は戸惑ったかも知れませんけれど、この椎の村は自由で明るくて活気があって、いいところでしょ?」

「え? ああ、はい……」

 その自由で明るくて活気があるところに圧倒されて、帰りたくなったのだ。

 学び舎という場所で、箱入りで育ったハールには、世間は騒がしすぎる。とてもついていけない。

「あなたが学び舎に戻って神官になることは喜ばしいことですけれどね、教師としてここに残ってもらえたら、私としてはうれしいかも知れません。その選択肢だってありますよ」

 ハールは、心が凍り付きそうになった。

 それは、自分を否定すること。人生を諦めることだ。ここに来た理由がそうであるように。

「私には、人生を選ぶ権利なんてありません。神官になれるのなら、なる道しかありません」


 ――神官になるべくして生まれてきた。


 ムテは、力の強い神官を失い、滅びの道を歩んでいる。

 だから、ムテの濃い血を残そうとし、その血をひいた子供たちを英才教育するのだ。

 ハールのような子供は、神官以外の道はない。落ちこぼれたら、もう生きる価値もない。細々と目立たぬように生きるしかない。


「まぁ、あなたがそう思うなら、そうなんだと思いますがね」

 ラインヴェールは、横になりながらも小さなため息をついた。口元の芝生が、ふと揺れた。

 ハールは立ち上がろうとした。

「歩むべき道に臆している場合ではありませんでした。ラン・ロサ様のところへ行ってきます」

 が。

 突然、ラインヴェールが言い出した。

「あの子……何といいましたかね? マリ?」

 マリの名を聞いて、ハールの足は止まった。

「私は、てっきりあの子の気の毒な境遇に同情して、後ろ髪を引かれているのかと」

「そ、それは! た、確かに少しかまいすぎたと思いますが……。あの、それが神官の道を捨てるほどの理由なんかではありません」

 ハールは焦った。青あざの顔が赤くなるのがわかった。

「ただ、学校にこない子が気になっていただけです。あの、新米教師の熱意で、でしゃばりすぎてしまったと思いますが、特別な気持ちは……」


 ――ある。


 ハールは思わず目を白黒させた。

 あまりにも素直にわいて来た自分の気持ちに、すっかり動揺してしまったのだ。

 たかが子供だ。まだまだ成長が足りていない。恋やら愛やら、そのようなものではない……と思う。思いたい。

 でも、初めてあった時から、マリはハールの中で特別な存在になっていたのだ。

 ハールは神官になるべきだろう。だが、マリをこのまま登校拒否のまま、リューマ族として育つがまま、放って置いてもいいのだろうか?

 銀の少女は、けしてリューマ族のようにたくましくなれない。そして、ムテのような教育も受けられないとなれば、将来は?

 今はいい。だが、今のままでいいはずがない。


 ……そう思うのは、英才教育を受けてきたが故の傲慢さか?


 ハールは何度か首を振った。

 リューマ族として生きたら、マリが不幸になるなんて決めつける権利は、ハールにはない。

 マリは、マリの意志でマリらしく生きればいいのだ。

 一教師に、何が言えるのだろう?


「特別な気持ちはありません。今後、学校に通ってくれれば……とは思いますけれど、強制はできませんし」

 ラインヴェールは、起き上がると、懐から封筒を取り出した。そして、ハールの胸元へ差し出した。

 やや厚みがある。かなりの枚数の便箋が入っているに違いない。

「手紙?」

「いえ、作文ですよ。宿題のね」

 ハールは、封筒を開いてちらりと見た。そして、目を丸くした。

 てっきりラインヴェールの手によるものかと思ったら、ひどく汚い字ですぐに別人のものだとわかる。しかも、字が大きいので、枚数がかさんでいるのだ。

「あなただけではないのですよ。私も、あなたの前任者も、あの子を学校へ通わせようと努力しました。でも、まったく気持ちは通じなかったのです。そのうち、リューマ族といらぬ衝突が起きそうになったのでね、触れないようにしていたのです。もう、あの子は仕方がないとね」

 ラインヴェールはため息をついた。

「……それでもですね、一時期学校に来ることがあって。その作文を書かせたのですがね、あまりに酷くて読解不能で、前任者が怒ってしまって……またそれっきりになってしまったんです」

 これは、マリの書いた作文なのだ。

 ハールは、がさがさと封筒から作文を取り出し、目を走らせた。

 目を走らせたが、すぐにその目を曇らせた。

「う、確かに読解不能だ」

「それでも、一生懸命書いてあるでしょう? 勉強したくないわけではないんですよ」

 ラインヴェールは少し微笑んだ。

「いつか解読しようと思っていたんですがね、私も忙しくて。あの子には諦めが勝っていましたし。でも、あなたなら読解できるかも知れませんしね。暇もあるでしょう?」

 そう言うと、ラインヴェールは立ち上がった。

「では、授業がありますので。ラン・ロサ様には、まだまだ顔が治らないと言っておきますよ」

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