言の葉の矢(2)

 ハールはペンを置いた。

 ノックの後、部屋の扉が開いたのに、顔ごと動かさないと誰なのか見えない。

「ハール。お見舞いのお客様」

 アリアの声。だが、その客はなかなか部屋に入ろうとしない。

「どうしたの? 入らないの? 言いたいことがあるんでしょ?」

 湿布が視界を遮る中、かすんで見える人影は……。

「マリ?」

 ハールに声をかけられて観念したのか、マリはもじもじしながらも部屋に入って来た。以前来たときよりも、さらに萎縮している。

「ちょっと待ってね。今度こそ、お菓子とお茶を用意するから」

 そう言ってアリアが部屋を出ていったのは、気をきかせてのことなのか。とりあえず、ハールとマリは二人っきりになった。……というところも、前回と同じ展開である。


 ――ということは……お見舞いというよりも、カシュを心配して来たのかな?

 それを寂しいと思うのは、あまりにも身勝手かも?


 ハールは苦笑いした。顔が痛いので、しかめっ面なままだが。

「カシュのことなら、心配ないよ。私は訴えないから」

 はっとして、マリは顔を上げた。目が真剣そのものである。

「……ち、違うって! あの……」

 マリは何事か言おうとして、言葉につまり、再びうつむいてしまった。

「そのことを、お母さんにも手紙で書いたんだけど……読めなかったかい? 安心して……」

「読めたよ!」

 マリは、ハールの言葉を遮った。

「手紙、読めたよ。それに親父、今日帰ってきたよ。だから……あの、ありがとう」


 カシュは自首して拘束されていた。

 だが、ハールが訴えないので、罪には問われないことになった。

 ただ、ムテ人を殴った事実は明白。何もおとがめがない状態では、多くのムテ人たちが不安に思うだろう。リューマ族は野蛮なのに野放し……と思われないように、数日間、牢屋にぶち込まれたのだ。

 村人たちの心情を考えたラン・ロサ様の配慮だ。


「もう? よかったですね」

「うん……。でも、ラン・ロサ様が……一ヶ月間、親父、家から出ちゃいけないって。あの……それよりも……」

 マリの声が途中で詰まった。そして、ふと顔を背けた。

 今のハールの顔は、見るに耐えないのだから、仕方がない。シアなんて、全くハールの顔を直視できないほどだ。

 少しでも動くと、包帯で固定した湿布もずれてくる。ハールは、少しずれかけた包帯に手をかけ、顔を覆うように直した。

「客商売には厳しい処分ですけれど。でも、今の状況だったら、ムテのお客が喜んでカシュの馬車に乗るとも思えないですから、骨休みにするといいです。マリも、ゆっくり家族と過ごせますよ」

「ごめんなさい!」

「マリが謝ることはありませんよ。そもそも、運悪く誤解を受けるような状況になってしまったのですから」

「ごめん! あたしが、親父にぺらぺらしゃべっちまって……あたしのせいなんだ!」

 マリは、自分の頭をかきむしっていた。

 お詫びの言葉が出たとたん、口が軽くなったらしい。止まらなくなった。

「お母さん、あの服を見て、いつもため息ついていた。で、捨てる、捨てるって言いながら、いつもしまってしまうんだ。だから、あたし、全然大事なものだって思わなくて……本当のお父さんの形見だなんて、知らなかったんだ」

 うつむいたまま。でも、声が涙声になった。

 おそらく、マリの頬には涙が流れ落ちていることだろう。

「お母さんにあの服どうしたのって聞かれて……。で、あんたを突き落としたことがばれちゃって……。お母さん、血相を変えて飛び出してしまったから……。親父に、そのことを言っちゃって……親父があんなになるなんて思わなくて」


 子供の目には何の問題もない仲の良い夫婦――。

 おそらく、長い間。

 カシュはその服の存在を知っていたのだろう。だが、おそらく気にしないように努めてきたのだろう。

 ムテ人は、一度心を分け合った人を、ずっと忘れない。愛し続けるものだ。

 消え去らないムテの男の面影に、リューマ族の夫が心穏やかだったとは思えない。

 ――その服を、ムテ人の男性に贈るなんて……。


 頭に血が上って理性を失っても仕方がない。

 だが、カシュはムテ人を知らない。

 ムテに浮気はない。あるのは本気だけ。リリィがカシュと結婚したということは、そういうことだ。

 亡くなった前夫は、リリィの中ではもう思い出の人――どんなに似ている人が現れようが、その人とは愛し合った思い出がない。

 リリィにとって、別人以外の何者でもないことを。


「マリのせいではないですよ」

 ハールは、同じ言葉を繰り返した。マリの手に手を重ねようとしたが、怒られそうなのでやめた。

「それに……雨降って地固まる……っていう言葉を知っていますか? ご両親のことは、きっともう心配ないです。今回の事件があって、わだかまりがなくなって、かえってよかったんじゃないでしょうかね? すべて、めでたし……です」

 マリの顔を見ようとしたら、それだけで顔が痛かった。ずれかけた湿布を右手で抑え、やっとのことでマリの顔を見た。

「これでよかったんです」

 が……。

 手を取っていないのに、顔が怒っている? やや潤んだ瞳に、口元が真一文字。

 やがて、爆発するようにマリの口が開いた。

「ばかーーー! ばかばかばか! 何がよかったんだよ! なんであたしなんかかばうんだよ、このあほんだら!」

「あ……あほんだら?」

 口を開けると顔が痛いのだが、ハールは開いた口を塞げなかった。

 マリは、ベッドから数歩下がって、肩をいからせ、拳を握り締めていた。

「よかった、だと? このくそったれ! てめーなんざ、くたばっちまえ!」

「はぁ?」

 ハールは、痛い顔のまま、固まった。

 なぜ、自分がそこまでののしられるのか? マリの反応が、まったく理解できなかった。

 今回ははじめから何の期待もしていなかったし、手も握らなかったし。

 ――なのに、何で?

「はぁ、じゃねーんだよ! てめーは、ぱぁなのか! 世間知らずの天然ぼけのおたんこなすのぼけこましめが!」

 マリは、ハールの理解不能な言葉を矢継ぎ早に連発して、部屋を飛び出していってしまった。

 扉のところで、お菓子を運んで来たアリアとすれ違い、お邪魔しました! と言い残して。


 ハールとアリアは、しばらく唖然としていた。

 だが、やがてお茶のカップがかたかた揺れるほどの勢いで、アリアが笑い出した。

 傷心のハールは、アリアの笑う様子を見て、ますます傷ついた。

「な! 何がおかしいんですか!」

 あまりに前回と同じ展開なので、ハールはがっかりしてしまった。

「だって、ハール。あの子、本当にあなたのことを心配していたのよ? ここまで来てあなたに謝るのに、勇気を奮い起こしてきたのよ? なのに、そんな酷い顔をして、『よかったですね』なんて言うんだもの。お詫びも心配もさせてあげないんですもの」

 アリアは涙目になりながら、大笑いした。

「なぜですか! 私は私なりに気をつかって……」

 怒鳴ると顔が痛む。涙目になりながら、ハールは訴えた。

「あーあ、ラン・ロサ様がいつも言っている通りだわ。心話に長けた人って、日常鈍感になりやすいんですって。ついつい、人の心を読んでしまうから、顔色を読むことを忘れてしまうのよ。それに、ハールって世間知らずだし、女心がわからないから、最悪ね」

 あまりのアリアの言いように、ハールは思わず顔を抑えたまま、ベッドに身を沈めた。

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