言の葉の矢
言の葉の矢(1)
――ムテ人に怪我させたら、リューマ族は訴えられて、ウーレンに連れて行かれて、そこで死罪だって。
マリの言葉が頭に響く。
カシュに殴られて、ハールの意識はすっかり飛んでしまった。
だが、まるで肉体から離脱したように精神が彷徨い、起きたことが見えていた。おそらく、ムテの力が生命の危機にあって、増幅したのだろう。
ハールが、まるで死んだように床に落ちた瞬間。
カシュの迫力に、ムテの村人たちは声も出せず、硬直していた。リューマ族たちは、へなへなとその場に崩れた。リリィは、すっかり驚いてカシュの顔を見、伸びてしまったハールを見、何もできないでいた。
その中を、カシュは無言で立ち去った。
……行き先は。
神官であり村長であるラン・ロサの元だ。
カシュは、ムテ人を殴った。自首して、罰を受ける覚悟なのだ。
今までどのような酷い扱いを受けて来ても、のらりくらりで、がはは……と笑ってきた男が。
そして、部下たち・子供たちに、口を酸っぱくして、時に暴力さえ使って「ムテ人には手を出すな!」と、言い続けてきた男が……である。
まずい。
これは、とても。
妻が別の男ともめている。
しかも、男は服を脱ぎかけていて、妻は泣きはらしている。
これで、誤解しない夫はいないだろう。
考えれば考えるほど、誤解して当然の状態だった。
――ハールって、女難の相が……。
アリアの言葉は正しかった。
いや、あれは、予知だったかも知れない。
とにかく。
どうにかして、ラン・ロサ様に伝えなければ。
今回のことは、カシュに罪はないと。
でも……体が動かない。意識が……もどらない。
まずい。
マリが……泣く。
「ハール! ハール! しっかりして!」
何度も呼ばれて、ハールはやっと目が覚めた。
覗き込んでいるアリアの顔が、緊張から安堵の表情に変わった。だが、もやがかかったように、はっきりは見えていない。
「アリ……」
声に出すと、顔が痛かった。
「ああ、よかった。死んじゃうのかと思ったわよ。すごいうなされちゃって」
死んでもおかしくはないほど、具合が悪かった。
だが、ハールにはもっと気になっていることがあった。
「カ……」
カシュのことだ。だが、ひどい激痛が走り、声が出ない。
「もう話さないで。痛いでしょ?」
ハールは、再びアリアの元へと担ぎ込まれたのだった。
顔がかなり腫れてしまい、酷いことになっているらしい。口を開けないほどである。視界が狭くてかすんでいるのは、顔に包帯を巻いているからと、目が腫れているからだ。
シアやラインヴェールが心配して、アリアと一緒に付き添ってくれていた。
「ハール、大丈夫ですか……って、大丈夫ではないですよね?」
ラインヴェールが、顔を覗き込んで言った。シアは、怖くてハールの顔が見れないらしい。それくらい酷い状態なのだ。
「でも大丈夫よ。霊山特製の湿布薬を使ったから。数日で腫れは引くと思う」
アリアが言った。だが、目下の心配は、自分の顔ではない。
「マリ……カシ……」
せめて、ラン・ロサに手紙でも、と思うのだが。
「丸一日目が覚めなかったから、お腹空いて……いても、それじゃあ食べられないわよね?」
シアが、ちらりとハールの顔を見て、あっという間に顔を背けた。よほど痛々しいのだろう。
丸一日。
手遅れかも知れない。
ハールは心配だった。
椎の村で、真っ先に親切にしてくれた家族。余計なおせっかいがとんでもないことになってしまった。
このままだと、カシュは罰を受ける。ウーレンに送られてしまうかも知れない。
そもそも、リューマ族とムテ人の間には、埋め合わせがたい差別がある。書物では充分すぎるほど知っていたことだが、現実、どのようにわきまえればいいのか、ハールにはわからなかった。
棲み分けることも必要だった。
ラインヴェールのように、マリとほどほど距離を置きさえすれば、なんの問題もなかったのに。
ラインヴェールは、マリはムテとして教育を受けなくても仕方がないと諦めている。マリは、リューマ族として生きようとしている。
それが、平和で正しいことだったのだ。
わざわざ丸く収まっているところに、紙上の理想・持論の正当性を貫こうとして騒動を起こし、あげくのはてにこのざま。
――馬鹿だった……。
「……なんて、自分を責めてはいけませんよ」
突然、ラインヴェールが言い出した。
ハールは、驚いてラインヴェールのほうを向こうとしたが、首が回らなかった。
「乗り合い馬車の家族のことを心配しているのでしょう? 大丈夫ですよ」
どうやら、悟られてしまったらしい。
「あなたを殴った男は、ラン・ロサ様の元で拘束されてはいますけれど、数日で釈放されます。大勢の見物人がいましたからね。まったくおとがめなしってわけにもいかなかったわけでして」
ハールは、しばしば目を瞬かせた。
「い……う……お?」
いったいどういうこと? と言いたかった。
ラインヴェールは微笑んだ。
「それを、私に聞くんですか? あなたが自分の胸に聞いたほうが早いんではないんですか?」
「い……い……あ」
意味がわかりません、と言いたかった。
「言の葉の矢ですよ」
ハールの脳裏に、かつて学び舎の学長とかわした会話が浮かんだ。
――私には、言の葉を飛ばす力が足りない。ムテの霊山との繋役としては、不十分です。
「ラン・ロサ様が、よくなったらお会いしたいと言っていました。他の神官との間でも、かわしたことのない鮮明な言の葉の矢が、あなたから届いたと」
「ま……か……」
まさか? と言いたかった。
だが、思い起こせば、とっさに言の葉の矢を飛ばそうとしていた自分が浮かんでくる。
今までこれほどうまくいったことはない。十回に八回しか成功しなかったことが、信じられないほど鮮明にできたのだ。
「ハール。おそらくラン・ロサ様は、あなたにもう一度学び舎に戻ることを勧めるでしょう。私には寂しいことですが、あなたのためにも、ムテのためにも喜ばしいことですから、ぜひ前向きに」
信じられないが、これで学び舎に戻る事ができる。
ラインヴェールの言葉が終わらないうちに、アリアの拍手が響いた。
「ハール! おめでとう。よかったわね」
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