女難の相(3)

 ――とんとんとノックの音。


 ハールは、また誰か村人がお見舞いにきたのだと思った。

 胸の痛みもだいぶよくなり、そろそろ仕事に復帰しなくてはならない――気が重たい頃だった。

 これ以上、期待されて親切にされてしまうと、仕事を辞めにくくなる。

 憂鬱になりながらも、出ると。

 なんと、深刻な顔をしたリリィが立っていた。

 彼女は蒼白な顔をしていたが、ハールを見て、ますます顔色を悪くした。

「ああ……。ハール」

 リリィは、まるで亡霊にでもあったような表情で、声まで震えていた。

 いったいどうしたのだろう? と思いつつ、ハールはリリィを家にあげた。


 リリィは謝った。

「ごめんなさい。ハール。マリがとんでもないことをしでかしたのに、今日の今日まで気がつかずにいて」

 ハールがマリを訪ねた時、リリィもカシュも留守だった。

 マリやリューマの少年たちが、わざわざ怒られるような報告をするはずがない。村はずれに住んでいるリリィには、すぐに村人たちの噂も耳に入らなかったのだろう。

「いいえ、私は自分で崖から落ちたんですよ。マリには何も関係がないことで……」

「かばってくださらなくてもいいんです。こういうことをしっかりと怒らないと、あの子のためにもならないことですから」

 どうやら、マリのしたことは、なぜかリリィにばれているらしい。あのリューマ族の女性から聞いたとか、それとも、マリが白状したのか。

「私も悪いんですよ。マリに無理強いを迫ってしまって。マリたちにとっては、ちょっとした悪ふざけのつもりだったはずです」

「でも……」

「もうすっかりいいんですよ。お茶でもいれましょうか?」

「いえ! あの私が!」

 リリィは、立ち上がったハールの腕を取った。その瞬間、リリィの目からほろりと涙がこぼれた。

「リリィ?」

 ハールは、驚きを隠せなかった。

 お詫びにしては、リリィの態度は大げさすぎる。

「あ……いえ、ごめんなさい」

 リリィは慌てて涙を拭いた。

「本当にごめんなさいね。私ったら……」

 そう言いながらも、リリィの涙はふいてもふいてもこぼれ落ちた。


 ――マリの教育で、そんなに困っているのか?


 ……にしては、何かが違った。

 別の何かがあることを、ハールは読み取った。

「私の結婚で、あの子を難しい立場に追いやってしまい……。リューマ族の仲間に対してムテであることに尊大にならないよう気をつけていたら、今度はムテであることを恥じるような子になってしまって」

 リューマ族たらんとしたら、ムテでは苦労する。だが、ムテであることを強調したら、家族同様に暮らしているリューマ族たちとの信頼関係が崩れてしまう。

 ムテの学校にマリを通わせたいリリィと、それほどこだわっていないカシュ。立場上、リリィもマリに学校へ行けとは、あまり強く言えないのだろう。

 だが。

「だから……ではないでしょう? その涙のわけは」

 リリィは、はっと顔を上げた。でも、すぐにハールが何かを悟ったのがわかったのか、気がついたようだった。

「ごめんなさい。ハールは……前の夫と雰囲気が似ていて……」


 リリィの前の夫は、最高神官マサ・メルが消えた事実に耐えきれず、亡くなった。

 おそらく、かなり能力のあるムテ人だったのだろう。心話に長けた者は、精神的な傷を負いやすいのだ。

 大事な人に先立たれたリリィは、やはり死ぬほど衝撃を受けた。だが、産まれたばかりのマリ存在が、かろうじてリリィを支えたのだ。

 その後、リリィはカシュと出会い、再婚したのだった。

 とはいえ、かつて心を分け合った人がいた事実は消えない。リリィの心の傷が癒えたわけではない。

 ハールを見て、去っていった人を思いだしても仕方がない。


「夫は、やはり教師をしていましたの。私は教え子の一人で……。ずっと憧れていて……」

 ということは、もしかしたら、やはり学び舎を出されてしまった神官の子だったかも知れない。

 とすれば、境遇もハールに似ていることとなる。

「ひとつ心を分け合ったのですね?」

「……ええ」

 リリィは、ううぅ……と嗚咽を漏らした。

「本当にごめんなさい。その服があまりにも似合いすぎて……」


 ――マリが用意してくれた服? もしかして?


 長い間、大事にしまわれていた長衣。木綿でできているが、リューマ族は着ない。袖を通した時から、奇妙には思っていたが……。

 考えると、もうたった一つの事実しか見えない。

 これは、リリィの前夫の形見の服だ。マリがこっそり持ち出したに違いない。


「も、申し訳ありません! そんな大事な物とは知らず!」

 ハールは慌てて長衣を脱ごうとした。

 今度はリリィが慌てる番だった。脱ぎかけた服を抑えながら、必死に訴えた。

「い、いいんです! もらってください。今まで大事にとって置いたほうが、どうにかしていたんです!」

「何を言うんですか? こんな大切なものをいただけません!」

 ハールは、それでも服を脱ごうとし、リリィはそれを押しとどめた。

「いいえ! お願いです。受け取ってください!」

「でも! これは……」

 押しとどめようとしたリリィの腕を取り、ハールは服の片袖を脱いだ。リリィは片方の手で、その袖を再びとうそうと、体をねじり……。

「だめ! 脱がないで!」

「いえ、そんな!」

 受け取れません! という言葉を、リリィは首を振って拒否した。

「お願いです! 受け取って! もう、あの人のことは……夫のことは忘れましたの!」

「あなたの……大事なものを……受け取るなんて」

「ハール! お願い!」

 そこまで強く言われると。一瞬、ハールは迷った。

「リリィ。本当にいいんですか?」

「ええ……そのほうが……」


 バターン!


 勢いよく扉が開いた。

 ハールとリリィが絡み合いながらも、目を向けると。

 なんと、カシュが仁王立ちして、玄関口に立っていた。

 その背後には、カシュを止めようとして必死にすがってはり倒されたリューマ族たちと、騒ぎを聞きつけてやって来た村人たちがいた。

「お、親方! は、早まらないで!」

 リューマ族の声。

 何事? と、考える暇は、ハールにはなかった。

 カシュの目は血走っていて、何やら危ない殺気がみなぎっている。しかも、丸太のような腕の筋肉が、ぴくぴくと痙攣している。

「てめえ! 人の妻に何をする!」

 雷のような声が響いた。


 ガツーン!


 と同時に、リリィの悲鳴。

 ハールは、カシュに殴られていた。

 かつて、土竜を素手で殴り殺したことのある男に……である。

 スカーンと見事なまでに勢いよく飛んでいって、壁に激突した。床にずるりと体が落ちるまで、かなり時間がかかった。一瞬、目をつぶった人々が、再び目を開けて追えるほどの速度である。

 当然のことながら、ハールは意識を失った。

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