女難の相(2)

 窓から落ちたマリだったが、たいした怪我もなかったようだ。顔にすこしドロを付けて、アリアに肩を抱かれて部屋に入ってきた。

 アリアと比べると、半分以下の背丈しかない。窓から部屋を覗くには、かなりの飛躍力と腕の力が必要だっただろう。あの厩舎作業で鍛えられているとしか思えない。


 ――こうして見ると、ムテの銀の少女なんだけれど。

 かわいい顔して、まったく似合わない力仕事をこなしている。馬も扱える。

 ある意味、えらい。でも、ムテ人はきっとマリのことを誰も褒めない。

 私も……説教しに行ったようなものだし。

 頑なになられても、仕方がなかったかも?


 マリは、ややうつむいて、ハールの顔を見ようともしない。だが、ハールの怪我の話を聞いて、心配で様子を探りにきたに違いない。

 その事実だけで、ハールは充分に慰められていた。

 アリアは椅子を出し、マリをすわらせた。

「ちょっと待ってね。今、お菓子とお茶を用意するから」

 そう言って部屋を出ていったのは、気をきかせてのことなのか。とりあえず、ハールとマリは二人っきりになった。

 先に口を開いたのは、ハールのほうだった。

「怪我はなかったかい?」

 マリは、ちらっとハールを見た。特に手元を。そして、再び目を伏せた。

「怪我……したんだ」

 ハールの爪は割れていた。下手に刺激を与えないよう、指先が包帯でぐるぐる巻きになっている。

「たいしたことではないよ」

 ハールは、包帯だらけの手を開いたり閉じたりして見せた。

「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだ」

 マリは神妙な面持ちで詫びた。

「わかるよ。気にしないでいい」

 あの状況では、マリは仲間を裏切れない。やめて! なんて言えない。

 ハールは、納得していた。ところが、マリはいきなりハールの想像とは違うことを言い出した。

「じゃあ、みんなを訴えないでくれる?」

「はい?」

 いったいどういうことだろう? 

 マリは、大真面目な顔をして、今度はハールの顔を真正面から見据えた。

「親父はいつも言っている。ムテ人を怪我させたら、リューマ族は訴えられて、ウーレンに連れて行かれて、そこで死罪だって。あたしのせいで、仲間が殺されたら困る!」

「は……あ……?」

 そんな大げさなことはしない。

 確かに、ムテ人――特に女性への暴力は、訴えられてウーレンに連れていかれる例もあるが。


 ――怪我を……心配して……じゃなかったのか。


 ハールの気持ちは一気に萎えた。

 今まで目を伏せていたマリが、じっとハールを見つめているのも、仲間を救おうとしてのこと。

 そもそも、ここに来たのも、ハールのことを気にしてなんかではなかったのだ。

 マリに詫びられて喜んでいた自分が虚しく思えた。


 ――そうだった。嫌われているんだった。


 胸がずきずき痛みだし、思わず顔をしかめてしまった。顔色も変わったかも知れない。

 マリの表情が、少し緩んだ。

「あ? あんた、ちょっと大丈夫?」

「う……うん」

 返事をしながらも、ハールは胸を抑えた。

 この大丈夫も、ハールの怪我の具合ではなく「仲間のことは大丈夫?」なのかも知れない。

 確かに酷い目にあったが、こんなことでいちいち子供を訴えるはずもないのに。

 なのに、マリは心配そうな顔をして、ハールの腕に手をかける。そっと寝かしつけようとしてくれる手が、とても優しく感じる。だから、余計に胸が痛い。

「よ、横になったほうがいいんじゃない? アリア呼んでくる? あ、そうだ! 薬を……」

「ま、待って!」

 ハールは、慌ててマリの手を取った。マリがいきなり立ち上がり、そのまま部屋から飛び出しそうな勢いだったからだ。

 マリは、きょとんとした顔で、ハールを見つめている。

「薬は効きそうにないんだ。だから、話を聞いてくれないかなぁ?」

 手をとられたまま、マリはしずしずと椅子に座った。

「……学校の話なら……嫌だよ」

「違う。学校は……マリが来ようと思わなければ、来ても意味がない」

 ハールは、苦痛に顔を歪めたまま、ゆっくりと小さな声で話した。聞こえなかったのか、マリは少しベッドのほうに身を寄せた。

「怪我のことも気にしていないし、君の仲間を訴えたりもしない。でも……お願いがあるんだ」

 声を出したせいか、ずきん! と胸が痛み、ハールはますます顔を歪めた。

「だ、大丈夫? あ、あたしにできることなら……」 

 マリは、慌てて身を乗り出し、握られた手に手を重ねた。

 ハールは魅入られたように、マリを見つめた。


 銀色の瞳は、ムテ人の証。

 こうしていると、まるでムテそのものの銀の少女――。


 ――大嫌い!


 胸が痛むのは、あばら骨が折れたせいだけではない。

「あの……好きじゃなくてもいいから、嫌いにならないで欲しい」

 マリの目が大きく見開かれた。

「あの……大嫌いって言ったよね? あの言葉が胸に刺さって……とても痛いんだ。取り消してくれるかな?」

 ハールは、必死になって頼んだ。

 ところが、マリの手はゆっくりとハールの手を離れていった。

「……あ、手を握られるのが、嫌いだった?」

 懇願するようにマリを見つめると、彼女は顔を真っ赤にして、口をモゴモゴさせた。

 そして、ついに爆発するように叫んだ。

「ば! ば! ばっかやろー! このすけこましオヤジめが! てめーなんか、大嫌いだ!」

「え? えええーーーーー!」

 ハールが驚く中、マリは肩を怒らせて、信じられないような汚い言葉で、ハールをののしり続けた。

 そして、アリアがお茶を持って扉をあけたとたん、自分の言葉の汚さに恥ずかしくなったのか、おとなしくなった。目を白黒させた後、捨て台詞を残した。

「お、お邪魔しました! と、とにかく! あたしは学校なんか行かない! あんたなんか、好きにならないっ!」

 アリアがぽかんとしている横を通り、マリはぷんぷん怒って帰っていった。



 ハールとアリアは、しばらく唖然としていた。

 だが、やがてお茶のカップがかたかた揺れるほどの勢いで、アリアが笑い出した。

 傷心のハールは、アリアの笑う様子を見て、ますます傷ついた。

「な! 何がおかしいんですか!」

「だ、だって! ハールったら、全然私の忠告を聞いてくれないんですもの」

 アリアはすっかり涙目になって、笑っている。

「忠告?」

「そうよ、さっき言ったでしょ?」

 テーブルにお茶を置いた後も、アリアの笑いは止まらなかった。

「あの子が成熟するには、きっと早くてもあと十年、遅ければ二十年くらいかかりそう。でもね、子供とはいえ、女の子なのよ? まるで、愛の告白みたいなことをして」

「こ、告白ですって! いつ、私が!」

「今」

 今度はハールが目を丸くする番だった。

「ねえ、ハール。そんなすがるような目をして『嫌わないで、胸が痛むから』なんて言われたら、告白しているようなものよ。あの子は、女の子として当然の警戒をしただけのこと」


 ムテの恋は、ふたつ心のないもの。

ひとつ心を奪われてしまったら、一生を左右されてしまうこともしばしばだ。

 誰でも恋することに慎重になる。特に女性は……。


 だが、ハールには女心が理解できない。

「警戒? って、やっぱり嫌われているのでしょうか?」

 かなり悲しげなハールの質問に、アリアは天をあおいだ。

「ああもう! だめね、これは。女難避けられず……って感じ」

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