馬小屋事件(3)
ハールは、しばらく動けなかった。
徐々に腹の痛みはなくなってきたが、胸の悪さは続いていた。堆肥の臭いのせいかも知れないが、落ちた時に胸を打ったのかも知れない。ずきっと痛みが走り、嫌な予感がした。
気温が下がってきて濡れた服が気持ち悪い。だが、同時に下方から藁が発酵する熱も感じ、臭いも上がって、胸がこみ上げてくるのだ。
ボロ捨て場は、余計な水分が混じらないよう、壁を石で覆った穴だった。四角い大きな井戸のようである。見上げると、ハールの背の高さの倍くらいある。
ハールは、胸の痛みをこらえて、石に手をかけて上った。三度落ちてしまい、その度にうなった。だが、四度目にやっと上り切ることができた。
「はあ……」
ふうふう言いながら、うずくまった。
爪が割れて、指先から血が出ていた。髪も顔も馬糞まみれだ。新調したばかりの服は、かなり汚くなっていて、洗っても駄目そうだ。
しかも、陽が傾いている。暗い寂しい夜道を歩いて帰らなければならないだろう。
来た時、すでに夜道は怖そうだと思っていたので、気分は憂鬱だった。
そして、風呂の心配だ。
湯船は買ったが、水を汲んでお湯を沸かさなければならない。今の状態のハールには、水を汲むのですら辛い。割れた爪では、桶を持つのも苦しいだろう。
でも、まさか、この馬糞まみれの状態では、寝るわけにも行かない。
「もう……死にたい」
翌日の仕事を思えば、また憂鬱になる。
服もない。風呂も入れないとなれば……。
――どうすればいいのだろう?
ラインヴェールの忠告は正しかったのだ。マリひとりにかまっている場合ではなかった。
ハールには仕事の準備も必要だった。授業には、子供たちに受けるようなネタも必要だった。他の子供たちだって、ハールの大事な教え子なのに。
だが、どうしてもハールには、マリが気になって仕方がなかった。
ラインヴェールのように、マリがかわいそうな子だなんて思っていない。だから、同情なんかではない。
ただ、学校に来てほしいのだ。
――大嫌い。
その言葉が突き刺さる。
胸が……痛い。
「おや? 無事に脱出できたんだね?」
ひっくり返って休んでいると、急に声がした。慌てて、飛び起きると、さらに胸が痛くなった。
先ほど厩舎を教えてくれたリューマ族の女だった。ハールの惨めな姿を見ると、ヒューと口笛を吹いた。
「こりゃまた、派手にやられたねぇ! あははは……」
正直、笑い事ではない。ハールは、もう二回ほど死にたくなった。
「まぁまぁ、いいから、こっちへ来なさいよ。ほらほら……」
女性はたくましい腕をハールに貸すと、むんずと助け起こした。そして、家の中へと案内した。
女性は、風呂を用意してくれた。
たっぷりのお湯。ほどよい湯加減。だが、ハールはくつろげなかった。
胸の痛みが、温かさで増してくるようだ。もちろん、このまま一人だったなら、本当に途中で死んでいたかも知れないが、助けてくれたのがマリでなかったのが悲しかった。
嫌われてしまったが、マリが本当は優しい子だということを確信していた。だから、ボロ捨て場でくたばってしまうかも知れない自分を、助けにきてくれるのでは? と、秘かに期待していたのだ。
胸の痛みに耐えきれなかった。
体と髪はきれいに洗ったが、ハールは早々にお湯から上がった。
風呂から出ると、服が置いてあった。手に取ってみると、木綿の下衣と長衣で、きれいに洗ってはいるが、着古したものだった。しかも、箪笥の木の香りが移っている。どうも長い間、しまわれていたものらしい。
カシュのものにしては、小さい。しかも、ムテの男物である。
「誰のだろう?」
ここには、リューマ族の男しかいないはず。
不思議に思いながら、袖を通すと、まるで自分用に仕立てたようにしっくりと体になじんだ。
「あらら、ものすごく似合うじゃないか!」
急に背後から声がして、驚いた。
リューマの女性が、腕組みをしながら口笛を吹いた。まさか、ずっと見ていたわけではないだろうが、ノックするとか、声をかけてくれるとか、あってもいいと思う。
リューマ族に比べてひょろひょろの裸を見られたかも知れないと思うと、とても恥ずかしい。
「ありがとうございます。いろいろお世話になって……。服まで用意してくださって……」
湯上がりで顔を染めながらも、ハールはお礼を言った。
「ああ、いいのいいの。それは、マリがあんたに着てもらってって、持ってきたものだし。まぁ、お詫びと思って受け取ってやってよ」
「……マリが?」
「ああ、あの子ったら、神妙になっていたよ。土下座までされて頼まれたら、あんたを祖末にはできないよ。ばっかだねえ。素直にごめんが言えないなんて」
ずきん! と胸が痛んだ。
やはり、マリはハールを見捨てたわけではなかったのだ。
「あの子のこと、許してやっておくれよね? やっぱりムテはムテをかばう……なんて、仲間に言われたくなかったんだよ。あ、そうそう、家まで送って行くよ。馬車でね」
――ムテはムテをかばうなんて、言われたくなかった。
マリの複雑な立場を見たような気がした。
そもそも、ハールをボロ捨て場に捨てたのは、マリのことを思ったリューマの少年たち。自分のためにやってくれたことを「よせ!」なんて、言えなかったのだろう。
帰りの馬車の中で、ハールは少し慰められた。だが、胸の痛みはますます酷くなった。
夕暮れが草原を染め上げる中、馬車はカタコトと進む。その、カタコトの振動が辛い。嫌な予感がした。
椎の村の石橋を渡る頃、ハールは真っ青になり、脂汗をかいていた。
「ねえ、あんたの家は?」
と聞くリューマの女性に、なかなか返事ができない。
「どこに馬車を進めればいいんだい?」
「うう……」
「うう……ってどこさ?」
やはり、リューマ族は鈍感である。薄暗いせいもあり、ハールの顔色も見えないらしい。
「困ったねぇ。じゃあ、ここでいいのかい?」
この胸の痛みのまま、置き去りは困る。ハールは、息もできないほどの苦痛に耐えながら、必死で口を動かした。
「……い、癒しの巫女の……アリアのところ」
家に帰って一人でいたら、きっと死んでしまうだろう。
ハールには、医学の心得もある。自分がただならないことに気がついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます