馬小屋事件(2)
転がり出るようにして、外に飛び出すと、何かにぶつかった。
先ほどまではなかった荷車だった。
「あれ? あんた……」
聞きたかった声が聞こえてきた。
マリは、荷車の上に乗っていた。なぜか、木の棒を持っている。きょとんとした表情で、ハールを見つめていた。
「あ……ああ」
やっと口を利くことができたが、言えたのはそれだけである。
「マリ、こいついったい何者だい? 厩舎から飛び出してきたぜ!」
よく見ると、リューマ族の少年たちが、五、六人、荷車の近くにいた。誰もが、汚い格好だった。そして、マリも似たり寄ったりの格好だった。
「ふん、こいつか? 先公だ」
マリの言葉は、どうもリューマ族と話す時、さらに拍車をかけて汚くなるようだった。つい、顔が曇ってしまう。
「へ? 先公? ってことは、いつもくそくらえなことを言って、えらそーな顔してるヤツ?」
一瞬、マリは目を丸くしたが、すぐに返事をした。
「う、うん。まぁ、そんなところだ」
マリは、もうハールのほうを見ようともしなかった。無視を決め込んだらしい。
リューマの少年が、荷車の上に山積みの飼葉桶の中に、少しずつ水を入れてゆく。マリは、棒で中をかき混ぜていた。中には切り草と燕麦、塩、そして水。かなりの力仕事だ。
「マリ、話がある」
「先公! あたし、忙しいのさ! 変な説教しにきたんだったら、さっさと帰りな!」
手を動かしながら、マリは言った。その間も、ハールを見ようともしない。
学校へ行かず、マリはリューマ族の少年と一緒に働いているのだ。それも、かなりの力仕事を。小さくて柔らかい手には似合わないことを。
「忙しいのはわかった。でも、聞いてくれないか? 学校へ行かないのは、よくないことで」
よくないこと――という言葉に、マリは反応した。かなり、機嫌を損ねたらしい。
「ここにいる誰も行ってねーよ! あたしらは!」
マリは、急に手を止めて怒鳴った。
「あたしら?」
ハールは、思わずオウム返しした。
マリのいう「あたしら」とは、リューマ族の少年のことだろうか? リューマ族にはムテ人の学校に入る権利がない。だが、マリはムテ人だ。
「マリはリューマ族とは違う。だから、学校へ行って……」
「邪魔だ! そこ、どけよ!」
荷車にとりついていたハールを、マリの木の棒が押しよけた。さほど強く押されたわけではないのだが、ドスッと突かれた勢いでハールは尻餅をついた。
とたんに、荷車は動きだし、ガタゴトと音を立てて、厩舎の中へと消えて行った。見ると、リューマの少年たちが荷車を押している。桶は山積みだった。かなり重いに違いない。マリも荷台から飛び降りて、一緒に押していた。
馬は、ますます騒ぎ立てている。まるで、厩舎全体が震えるようだった。
ハールは、起き上がり、恐る恐る中を覗いた。
マリと少年たちが、飼葉桶を運び、馬房に運び入れていた。あれほど騒いでいた馬たちは、餌を与えられておとなしくなった。
ハールが厩舎に入った時、馬たちが大騒ぎしたのは、おそらくハールが飼い付けに来たと勘違いしたからなのだろう。あれは、餌をねだっていただけだった。
マリたちにとっては、日常、あたりまえのことだったのだ。ハールは、呆然とマリたちの手際よい仕事ぶりを見るだけだった。
やがて、はぐはぐはぐ……と、飼葉を食む音が響く。
その中を、空になった荷車が戻ってきた。
「マリ。お願いだから、学校に来てほしい」
返事がない。
マリは、竹箒で荷台の上を掃きまくっていた。少年たちも、おのおの忙しく働いている。厩舎の床を掃く者、水を馬房に運ぶ者、そして、藁を返す者。
「マリ」
「……」
「マリ」
「……」
「学校に行かないと」
「いい加減、その口塞げよ、くそヤロー」
「く、くそ?」
叫んだのは、マリではない。マリの近くで床を掃いていた少年だ。
「てめえ、いちいちいちいち、うるせーんだよ! マリは、学校なんかいかねーって言ってるだろ!」
「だいたいな、ムテのお先生か何か知らねーけどな、テメーなんざ、口だけだ。タマついてんのか、このあほんだら!」
「た、たま?」
別の少年にも怒鳴られたが、言葉を理解できない。ただ、雰囲気で、かなり怒らせていることはわかる。
「マリは、リューマ族と一緒なんだ! あんたらとは違うよ、ね? マリ?」
ほんの少しだけ、気の弱そうな少年がマリに念を押した。
「あ? ああ、そうさ! あたし、こんなムテムテしたヤロー、ダッキライさ!」
マリは、荷台の上で仁王立ちになり、はっきりと言い放った。
――大嫌い。嫌い、嫌い、嫌い……。
頭の中で、その言葉がこだました。
まるで頭が鉄製の鐘になったように、いつまでもガンガンと響き渡り、ハールは愕然としてしまった。
学び舎では、そのような事を直接本人に言う者はいない。心の中で思うことはあっても、読まれないように防御するので、心話にもならない。
嫌われることに慣れていない。しかも、ハールには嫌われる理由がわからない。
「……手を……握ったから?」
思いついたのは、それだけだったのだが。
「? なんだそれ? あたしは、あんたみいたいな偉そーなヤツが嫌いなんだよ! わかったら、さっさと消えろよ、くそ野郎!」
マリは、勢いよく荷台から飛び降りると、すたすたと厩舎のほうへと歩き出した。
「ま、待って! 待ちなさい!」
動揺を隠せないまま、ハールはマリのあとを追おうとした。だが、リューマの少年が立ちはだかった。
「しつこいくそヤローだな! くそヤローはくそヤローらしく、くそくらえだ!」
最初に「くそヤロー」とハールに怒鳴った少年だった。赤みのかかった褐色の髪はボサボサ、顔は髪の色よりは黒いくらいの褐色、そこにそばかすがたくさんあった。少年たちの中では、一番背が高く大柄だったが、それでもハールの胸くらいまでしかない。
ハールは、少年をすり抜けてマリを追いかけようとした。
が、とたんに腹に鈍痛が走った。少年が勢いよくハールのみぞおちを頭突きしたのである。
とたんに脂汗が出てきた。
暴力を受けたのは生まれて初めてのことである。しかも、ずっと続いていた胃の痛みもあって、通常よりもずっと衝撃があった。
ハールはそのまま腹を押さえて倒れ込みそうになった。だが、その場に倒れることはなかった。
別の少年たちが、飼葉桶がなくなって軽くなった荷車を押して、ハールに突進してきたからである。ハールの体は、荷車の端に強くぶつかり、くるりとそのまま回転して、荷台の上に乗ってしまった。
「それ、いけーっ!」
大柄少年の声が響いた。
荷台の上で転がりながらも、ハールはずっと腹を押さえて丸まっていた。がたがたと車が揺れる。その振動が、ますます胸を悪くする。
薄目を開けて仰ぎ見れば、明るかったあたりが薄暗くなり、また明るくなった。馬の声が聞こえた。荷車は、外から厩舎に入り、再び反対側から外に出たのだ。
「それ! ぱっといけー! ぱっといけって、ぷー!」
その声と同時に、今度は荷車が急に止まり、ハールはころころと荷台から転げ落ちた。
――ダダダダ……ドサッ!
かなりの高さを落ち、叩き付けられた。
が、下は藁だったので、衝撃は少なかった。いや、それよりも、まだみぞおちの一発が効いていて、痛みを感じなかったのだ。
「ううう……」
と、ハールはうめき声を上げた。
リューマの少年たちは、ハールを本当にくそ野郎にした。そこは、馬糞や汚れた寝藁をためておいて、堆肥にする場所――ボロ捨て場だったのだ。
苦しさで身を返すと、ふと視線を感じた。マリが、上から心配そうに見下ろしていた。
「……マリ。助け……」てくれ……という言葉さえ出ない。それでも、マリもムテ人だ。充分に伝わったことだろう。
しかし、ハールの身にふりかかったのは、助け手ではなく、更なる災難だった。
「う、うるせぇ! あんたなんか、そのままくたばっちまえ!」
どさどさと落ちてくる尿を含んだ藁。そして、馬糞。
胸の悪さもあったが、鼻をつくアンモニア臭で、涙が出そうだった。
心配そうと思ったのは、見違いだったかも知れない。ハールの目は、アンモニアでかすんでいたし、逆光がきつくて、あまりマリの顔は見えなかったのだ。
……でも……確かに、そう感じた。心の言葉で……。
馬車の中で毛布をかけてくれたこと。荷物を持ってくれたこと。
あれが、本当のマリのはず。
だが、次に上から響いてきたのは、リューマ族の下品な笑い声。
「がはは! ざまーみろってんだ!」
「マリ、いいざまだよね! 気分爽快だね!」
「本当にくたばったりしてな、お美しくてお清潔なムテ様だものな!」
その中に、マリの声がなかったことが、ハールの救いだった。
そして、やがて人の気配は消えていった。マリたちは、ハールをボロのように捨てて、その場をあとにしたのだった。
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