馬小屋事件(1)
休日、ハールは村はずれのカシュの家を目指して歩いた。
ラインヴェールに相談しても、カシュ一家のことについては、あまりいい顔をしない。前任の先生も、熱心にマリを学校によこすよう説得したらしいが、カシュに怒鳴られて帰ってきたり、リューマの子供にいたずらされたりと、散々だったと言う。
「ハールには、申し訳ないですが、荷が重いと思います。あの子は、仕方がないですよ。それよりも、他のやる気のある子をしっかり見てほしいです」
「仕方がないなんて! マリは……あの子はいい子ですよ!」
「いい子なのはわかりますが、リューマ族と関わるのはちょっと。私は、あなたのことが心配なのですよ」
そう言われて、本当に心配そうな顔で見つめられてしまうと、一人で行くしかない。
しかし、遠い。
村の中はこじんまりだが、一歩石垣の向こうへ出て、橋を渡ってしまうと、なだらかな丘と林、森、草原といった広々とした空間が広がる。
なだらかな坂を降りて、上って、降りたところにカシュの家があるのだ。村からは見えない。馬車ではすぐだが、歩けば遠い。
時々、農作業する人々の姿を畑の中に見るものの、誰にも会わない。日中はいいが、夕方は怖い道になりそうだ。明るいうちに、帰らなければならないだろう。
ハールは、心細さと緊張とドキドキとで、ぐちゃぐちゃになりながらも、足だけは必死に動かした。
マリは私を覚えているだろうか?
覚えているとしたら、どう思っているだろうか?
変な旅人? それとも、新しい教師? ふらふらの頼りないムテ人?
と、とにかく……。
マリに会って、学校へ行って、ちゃんと勉強するように説得しないと。
顔がほてってきた。汗もかいている。
必死に歩いたからだろう。かなり距離があったはずなのに、気がつくと、もう家の前に着いていた。
樹々の横を抜け、食堂に入ろうとした。が、看板は【カシュの食堂/昼休み中/夕食は日が沈んでからの開店】のままである。おまけに鍵が掛かっている。
ハールは、困ってうろうろした。すると、【宿はあちら】の看板があった。そちらに回ることにした。
宿の受付には、リューマ族の太った女が座っていた。もしかしたら、リリィがいるのでは? と思っていたハールは、がっかりした。
「いらっしゃい! お客さん、ひとりかい?」
「ひ、ひとりです」
「ふーん、部屋は風呂付きと風呂なしとどっち?」
「風呂ありのほうが好きです」
「あいよ、じゃあ、一階の端の……」
「あ、あの! 泊るんではなく、その……」
ハールは慌てた。ついつい、矢継ぎ早の質問に答えているうちに、誤解されてしまったらしい。
今度は、リューマの女ががっかりする番だった。
「なあんだ、お客じゃないの? からかうのはやめておくれよ。こちとら忙しいんだから!」
「あ、あの! カシュさんに用事があるんです!」
なぜか、マリの名は出てこなかった。
女は、少しだけ興味深げにハールを見た。
「親方に? 何のようだい?」
「う……先日、お世話になったお礼を」
「あ、じゃあ伝えておくよ、あんた、名前は?」
「い、いえ! 直接お話がしたくて」
女はふうとため息をついた。
「親方は、乗り合い馬車の仕事で、今頃は樫の村あたりだ」
「あ、じゃあ……リリィは……」
「奥様は、買い出しに出かけたよ。もうすぐ戻られると思うけれど」
ハールは、唾を飲み込んだ。
なぜ、マリのことを聞くのに、こんなに緊張するのだろう?
「あ、あの……それでは、お嬢さんは?」
「はぁ? お嬢さんってマリのことかい? あははは!」
リューマの女は大笑いした。
「あの子なら、他の子たちと一緒に、今頃は馬小屋掃除だよ。ほら、そこの道から外に出たら、厩舎があるから。そこにいるよ」
「あ、ありがとうございます」
ハールは、頭をぺこぺこ下げながら、言われたほうを目指した。
背後から、女の声が追ってきた。
「脚元に気をつけな! 馬糞が落ちているから、踏まないように!」
建物の裏手に出た。
放牧場が続いていて、何とも気持ちのいい風が渡る。ただし、少し臭う。
石を組んだ上に、屋根を葺いた古い細長い建物がある。どうやら、それが厩舎らしい。
人の気配はない。ハールは、脚元に気をつけながら、そっと厩舎のほうへと向かった。
大きな扉があるが、全開になっている。中は薄暗く、覗くとますます臭った。それだけではない。何かの気配がする。
「びひひひひ……」
と、変な音がして、ハールはびくついた。
「マリ……」
小さな声で呼んでみたが、今の声がマリでないことは、誰でもわかる。
ハールは、勇気を出して、中に入った。臭い中にも、藁のいい香りもする。中に入ると、薄暗さにもすぐに慣れた。
通路がずっとまっすぐ通っていて、正面はこちらと同じように扉があるらしい。やはり全開に開いていて、外がまぶしく見えた。
ハールは、四、五歩進んで、ぎょっとした。
急に、両側の仕切られた場所から、何かがぬっと顔を出したのだ。
「ぶひひひひひ……」
鼻を鳴らす音。馬である。
「ふう……。そうだよなぁ。ここは厩舎だから、馬がいて当然じゃないか」
びくびくしながらも、ハールは自分に言い聞かせた。
だが、外でのほほんとしている馬を見るのと、近くで、しかも薄暗い馬房にいる馬を見るのと、どうしてこうも違うのだろう?
なぜか、彼らは目が血走っているような気がするのだが。
ハールは、もう数歩奥に進んだ。この厩舎のどこかに、マリがいるはずだった。
ところが。
「ひひひーーーーーん!」
突然、馬が嘶いた。
それどころではない。両側にある馬房という馬房から、馬たちは皆、顔を出した。そして、急にどすどすどす……と、ものすごい音を立て始めた。
なんと、火花が散るのでは? と思われる勢いで、全頭揃って、前足で地面をたたき出したのだ。
しかも、嘶く。鼻を鳴らす。首を気違いのように振り回す。そして、ついには、壁を蹴飛ばす馬も現れた。
がたがたと、激しく馬房の扉が揺れる。それも、一斉に。
薄暗い厩舎の中は、さながら沸騰した鍋の中のような騒々しさになった。
このままだと、扉を壊して飛び出してくるのは時間の問題だ。
どどどどど……どうしたんだ? 何があったんだ?
ハールは恐ろしくなり、先に進めなくなった。
馬という生き物は、心話ができない。つまり、何を考えているのか、ムテ人には理解ができないのだ。
近くの馬が、首をのばし、白い歯をむき出しにして、ハールの服をかすった。
「ひゃあああ!」
ついにハールは悲鳴を上げて、厩舎から飛び出した。
馬糞をたくさん踏みつけながら。
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