椎の村の人々(1)


 朝、ハールは胃の重さで目が覚めた。

 昨日のうちに美味しそうなライ麦パンを買っておいたのだが、見ただけでうんざりした。馬車の中では、あれほど食べたくて仕方がなかったのに……だ。

 学び舎では、おいしい食べ物がでない。だから、ハールも昨日のお昼ほど、たっぷり食べることがなかった。夕食も食べれないほど、満腹だった。

 だが、一夜明けると、満腹感は飽満感に変わった。消化どころか、ますます膨らんでいるようなのだ。

 特に最後のデザートの一口が、気持ちの悪い甘さを伴って、胃からせりあがってくるようだった。

「おいしい料理は、食べ過ぎに気をつけないと」

 重たいお腹を手で押さえながら、のっそりと起き上がった。

 学び舎や霊山の食事はまずいが、体にはいい。消化吸収がよくて、栄養もある。ハールの体は、そういった食事に慣れ過ぎていた。


 服を着ようとして、ハールの手は止まった。

 昨日まで着ていた服には、インクのしみがついていた。馬車で日記を書こうとした報いである。

 今日は、椎の村の神官であり、村長でもあるラン・ロサに挨拶に行くことになっている。汚れた服では行けない。

 下衣の替えはそれなりにあるが、上衣となると、一枚きり。着たきりすずめである。村について落ち着いたら、新調すればいいと思っていた。

 洗濯をしてインクが取れればいいが……と思う。時間がないので、とりあえず水につけてこすってみようと思ったのだが、水がないのに気がついた。

「はー! 不便だ!」

 思わず大きなひとりごと。

 学び舎には、水道設備がある。蛇口をひねると、地下から吸い上げられて蓄えられていた水が、難なく出てくる仕組みになっているのだ。

 ところが、古めかしい椎の村では、村の中央に井戸があるだけだ。村人たちは、おのおのそこで水を汲み、家にある大きな瓶に溜め込んで使うのだ。

 それを知らなかったハールは、胃が重たいというのに、水の一杯も飲めずにいる。

 しかも……。

「この家には、風呂もないのか?」

 自慢の髪はどうすればいいのだ? と思い、笑ってしまった。

 切ればいいのだ。

 ムテの能力が宿るという髪は、神官であれば切ることは許されない。だが、一般人は、比較的短くしている者もいる。

 ハールは、そう思いながらも実行する気にはなれなかった。

 ……未練がましいことだと思う。


 井戸まで行くのは、勇気がいた。

 村人たちには、見られたくない。何をするにも慣れていない無様な格好をさらし、好奇の目にさらされたくはないのだ。

 人目を避けるようにして、こそこそと水を運び、どうにか顔を洗った。運良く、人に会わずにすんだが、服のしみは濡らしても大きくなるだけで、ますます酷くなってしまった。

 そのような時に、ラインヴェールが迎えにきた。

 椎の村の学校長である彼は、見かけは三十歳くらいだが、実際は二十五歳のハールに比べて、三倍は生きていることだろう。 

 ムテ人は、外見は歳をとらない。だいたい二十代後半から三十代前半くらいの容姿を保ち、百年から二百年ほど生きる。その後、一気に一年ほどで老化し、骨になってしまう。中には、寿命を使い果たし、灰になってしまう者もいる。

 だから、死を察したムテ人は、メル・ロイ――時に捧げられし者――となり、死に場所を求めて旅に出てしまう。愛する者たちに、老化して醜く消える姿を見せないのだ。

 見かけ上、同じ年齢に見えている者でも、かなりの歳の差があったりするのは、よくあることだ。しかも、最近のムテ人たちは、それぞれの年齢を読む能力が薄れてしまったので、目上に対する尊敬の念が薄れてきている。

 ……と、世相学の本には書かれている。

 ハールは、無礼な若者にならないよう、ラインヴェールに深々と頭を下げた。

「ハール、我々の間です。もう堅いことは抜きにしましょう」

 気さくにもラインヴェールは言った。

「学校に行けば、私はあなたの上司ということになりますが、外では友達でいましょう」

「では……兄のように思ってもいいでしょうか?」

 明らかな社交辞令だが、ラインヴェールは大満足したようだった。

「ああ、かまいませんよ。では、兄として……」

 彼は、持っていた鞄の中から、小さな瓶をとり出した。何をするのかと思ったら、ハールの服のしみに中の液体を塗り始めた。

「昨日から気になっていたんですよね。インクのしみには、これが一番……。でも、時間が経ちすぎてしまったようですね」

 それでも、インクのしみはかなり目立たなくなった。

「あとで、いい仕立て屋を教えますよ。では、行きますか?」

 ラインヴェールは、すっかり兄気分になったのか、上機嫌だった。

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