リューマ族の一家(2)
「ば、ば、ば、馬鹿にするなよ! 乞食じゃないぞ!」
他の客と同じ行動だったのに、少女は顔を真っ赤にして怒っている。それどころか、悔しげな目に涙さえ浮かべている。
「え? あの……。でも……。私には、これしか……」
世間知らずのハールには、何が何なのか全くわからない。
――なぜ?
なぜ、こんな展開に?
何がいけなかった? 何を間違った?
手を握ったから?
……もしかして、嫌われた?
かわいい少女に嫌われたと思ったことが、ことのほか傷ついた。
学び舎を出て以来の今までの恐怖や不安が加味されて、涙が出そうなくらいだった。
思えば、学び舎ではこのように感情を爆発させる者はいない。それに、ここまで心話が伝わらない相手もいない。
集中すれば、言の葉として口から出そうな明快な意志は、深く語ることもなく伝わるものなのだ。
どうして何もわからないのだろう?
「おーい! マリ! まだかぁ!」
ハールがあたふたしているところに、まるで雷のような大きな声が響いてきた。リューマ族の御者だ。
「ああ、親父ー! ちょっと待って!」
ムテには似合わない大きな声で、少女も返事を返す。
「え……? おや……」
親子? ムテの少女とリューマ族の男が?
それはないだろう? と、ハールは思った。つい、顔に出たらしい。
マリと呼ばれた少女は、再びギロッとハールを睨むと、すごみを効かせた。
「あんた、そこから逃げるなよ!」
「は……はい」
マリは、ハールが動かないのを確認すると、困った客の始末を相談に、父親の元へと向かった。
その時間は、ほんのわずかだった。だが、ハールは生きた心地がしなかった。
少女に睨まれて動けなくなるほどなのに、あの体格のいい御者に怒鳴られたら……。
それだけで死ぬかも知れない。
馬車の荷台に取り残されて、ハールは唖然としていた。
耳を澄ませば、親子の会話が聞こえた。
だが、リューマ族らしい訛の強い音で、しかも、かなり汚い言葉で早口。学び舎の美しい発音になれているハールには、あまり聞き取ることができなかった。
「……馬鹿にするなよって、ほんと。ハラクソ煮えくり返った!」
「んなぁ、やっこさん、まじで金貨しかねえんじゃ? まじーぃなぁ」
「だじゃれ、寒いぞ! でもさー、そんな大金、受け取れねーよ。しかも、手ぇ、馴れ馴れしく握りやがってよ。あたし、売春婦でもあるめーし!」
「がはははは! ばかこの! そんなちっこい体売るな!」
「娘、勝手に売るな! 肉団子!」
「がははは! どうせムテの玉ナシに女なんて買えねーよ」
「でもさ、親父。おつり足りねーよ! まさか、金貨しか持ち歩かないあほんだらの旅人がいるなんてさ、ムテのぼけも進んだなぁ」
「とすりゃあ、あれ、ほれ、これで……」
「おっと! 親父ぃ、冴えてるじゃーん!」
どうやら話は終わったようだが……。
おそらく聞き取れても理解できなかったに違いない。
かくして、リューマの男が現れた。
体が大きくて、馬車の中が狭くなった気がした。腕の太さは、ハールの倍以上、筋肉がもりもりである。上背はそれほどでもないが、幅はかなりある。
色黒な顔をしかめて、ハールに向き合った。
「お客さんよ、あんた、本当に金貨しか持ち合わせがねーのかよ?」
「は……はい」
生きた心地がしない。
世の中すべて金次第……という社会もあると世相学の本で読んだ。だが、金を払いすぎて困るとは書かれていなかった。
「だがよ、俺ら、釣り銭がないんだよ。わかるか?」
「はい……。ですから、おつりは……その」
ふーんと大きなため息が聞こえた。
「お客さん。困るんだよ。あのなー、乗り合い馬車ってのは、庶民が乗るには充分高い値段設定なんだぜ? 銅貨三枚程度の釣りなら、娘の小遣いにできるがな、それに銀貨が九枚ときちゃあ、商売じゃねえ。施しだ」
「え? あ? はぁ……」
ここに至って、ハールはやっと理解した。
どうやらお駄賃としてあげるには、金額が高すぎたのだ。高ければいいというわけではなく、ほどほどというものがあるらしい。
「申し訳ありません。旅なれていないので、相場がわからず、大きなお金しか持ち合わせがなく……」
旅なれていないだけではない。世間なれもしていない。
ハールにとって、ムテの一般人という道は、神官になる以上の苦難の道になりそうだ。
「まあ、そこでだな。俺らは宿屋と食堂もやっている。そこで飯でも食ってもらえれば、つりは出せるんだが、それでどうだ?」
「え? 食堂?」
ハールのお腹はもう少しで「ぐー」と言いそうだった。この騒動で忘れていたが、空腹で死にそうだったのだ。
「ちょっと村はずれまで戻るがよ、ちゃんと目的地まで連れていくから、どうだ?」
「お願いします!」
ハールは即答した。
安心したら、ますます腹が減った。
……だが、どうして空腹だと気がついたのだろう? まさか、寝言? それとも……。
ハールは、無意識のうちにポケットを探っていた。
そこには、破り捨てるつもりの日記の一ページが入っているはずだったのだが……。ない。
嫌な予感がする。
その様子を見ていたマリが、頭をかいた。
「ごめーん。寒そうにしていたからさぁ、毛布をかけてあげたらさぁ、これ、出てきた」
もじもじと差し出す手。そこには、インクのシミのついた紙があった。
そこに書かれていたのは……。
――ああ、腹が減った。腹が減った。腹が……。●●●★
「あ、あなたたち! 私の日記を読んだのですか!」
思わず顔から火が出そうになった。
人に読まれると思ったら、あんなことは書かなかったのに!
だが、リューマ族とムテの少女の不思議な親子は、声を揃えて否定した。
「読んでねーよ。文字、読めねーから」
文字が読めない? ハールは唖然とした。
ムテ人には、文盲などいないはず。世相学の資料では、そうなっている。
最高神官が定めた制度で、ムテ人ならば五歳頃から学校に通うことになっている。いくら幼いとはいえ、学校には行っているだろう。その年齢には充分だ。
父親だって、確かにリューマ族の文盲率は高いが、ムテに住んでいるのであれば、文字くらい読めるだろう。
二人とも、少しくらいなら読めるはずだ。
それを裏づけるように、マリが小声で付け足した。
「ただ、【腹】と【減った】だけは読めた」
「……うっ」
ほとんど、それしか書いていない。
ハール・ロウ――かつての神官候補である。
だが、今はただの空腹を抱えた男だった。
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