リューマ族の一家(1)
がたん!
と馬車が揺れたとたん。
日記にインクが垂れてしまった。ついでに服にも飛び散った。
やはり、馬車の中で日記など書くものではない。
また子連れの女性に笑われている。
「……むむむ」
今書いたページを破り、それで服を拭く。さらに捨てるに困って、丸めてポケットに押し込んだ。
下手に捨てて、他人に読まれたりでもしたら? 恥ずかしくて生きていけないだろう。
どうやら気を紛らわすには、寝るしかないようだ。だが、少し寒い。
でも、疲れている。
先日まで熱があったから、体力も失われている。
暗示をかけてでも、少し眠ろう……。
腹が……減ったが。
「お客さん、お客さん」
声がした。
「お客さん、お客さん」
揺すられた。
目を開けてみると。
少女だった。
――かわいい……。
素直に思った。
ハールをまっすぐに見つめる瞳。純粋な銀の目だ。
流れるような美しい銀髪。雑に縛っているのがもったいない。
ミルクの泡のような肌。頬が桃のよう。
愛らしい口元だが、締まりが良くて利口そうだ。
少女には、ハールが育った学び舎の学生たちにも似た古の血の気があった。
ほっとする。
まるでお人形のようなあどけない顔――穢れを知らぬ幼いムテの銀の少女。
……だと思ったが。
「お客さんてば! 終点だよ! 料金は銅貨七枚だよ、用意しといて!」
「え? ええええっ!」
もちろん、金額に驚いたのではない。
いかにもムテ! の美少女が、まるで下賎なリューマ族のような言葉。
あまりの落差に飛び起きてしまったのだ。
気がつくと、いつの間にか毛布が掛かっていた。道理で途中で寒さを忘れたはずだ。
少女の方は、ハールが目覚めたと知ると、さっさと馬車から降り、出口に陣取った。集金のためらしい。
窓から覗くと、にこにこしながら、客からお金を受け取り、見送っている。
ハールが乗り込んだ時、少女は御者台にいた。リューマ族の大男と並んでいる姿は、まるで美女と野獣のようだった。
てっきり、客の子供が前の席に乗りたくて、わがままを言ったのだろう……と思っていた。
年齢よりは成長しているほうだが、せいぜい七歳くらいだろう。いくらハールが世間に疎くても、こんな小さな少女が、リューマ族とともに乗り合い馬車の仕事をしているのは、普通じゃないとわかる。
その普通ではない状態が、ムテの人々に作用するのだろうか?
ムテの婦人が、おつりを用意しようとする少女の手を握りしめる。
「ああ、いいのよ。おつりのほうは……」
「いいえ、でも……」
少女は遠慮した。しかし、婦人は気の毒そうな顔をして、さらに手を重ねた。
「いいの。あなたのお小遣いとして受け取って。こんなに小さいのに、こんなにがんばって……まぁ、本当にけなげなこと」
婦人は、まるで泣き出しそうだ。少女は、少し躊躇したが、やがて、うなずいた。
「ありがとうございます。どうぞ、よい旅を」
にこりと微笑むと、いかにもムテの少女らしい品が漂う。
その次の客も、婦人にならっておつりを受け取らなかった。
次の客は、料金をきっちり払ったが、こっそりと銅貨一枚を少女の手に握らせた。
少女の笑顔に、客は気持ち良さそうに馬車を降りて去ってゆく。
そして……ハールもすっかりかわいらしい笑顔の虜になっていた。
が、次の瞬間。
「お客さーん! また寝ちゃったのかぁ? あんたが最後だよ!」
またまた、ムテの少女とは思えない大きな声が響いた。
待ちきれなかったのか、少女は馬車の中に入ってきた。
「終点! さあ、金払って、降りた、降りた!」
まだまだ幼いといえど、美少女に見つめられると、焦ってくる。学び舎には、女教師も女学生もいるのだが、神官課程にはいなかった。ハールは女の子を見慣れていなかった。
慌てて財布を探してみるものの、どこにしまったやら、なかなか出てこない。
不安に駆られて、かなり奥にしまい込んだのだ。
「お客さーん。ちゃーんと用意してって、言ったのにぃー」
「も、申し訳ありません」
鞄の中を探しながらも、なぜ、こんな小さな女の子に怒られてるんだ? という疑問がわく。
本来ならば、神官となり、村中の尊敬を集めるべき者になるはずだった。
そう生まれついたはずだった。
それが……権利を得られなかったばかりに。
こんな子供にさえ怒られて……。
は、恥ずかしい。
ハールは、やっと探し当てた財布の中から、金貨を一枚取り出した。
少女に差し出すと、彼女は首を振った。
「ごめん。おつりが足りない。もっと細かいのでちょうだい」
だが、ハールの財布には、金貨しかない。
「ああ、おつりはいらない」
「いや、でも……これは……」
少女は困惑した顔だ。
ハールは、先ほどの婦人を思いだした。
あのように言えば、少女は微笑むに違いない。もう一度、あの笑顔をみたい。
それも、自分に向けてなら、旅の疲れも取れるような気がした。
「遠慮しなくてもいい。これは、あなたのお小遣いだと思って、受け取って……」
にっこり微笑み、金貨を少女に握らせ、その上に手を重ねた。
なんて温かくて小さくて柔らかくて、可憐な手なんだろう? きゅっと握ると、ドキドキした。
ハールの予想では、少女は少しだけ躊躇して「ありがとう」というはずだった。
そして、素敵な笑顔を見せてくれるはず……。
が。
――バシーーーーン!
景気のいい音。
と、同時に手の甲が熱く、じんじんしだした。
ハールは、何が起こったのかすぐにわからず、あっけにとられた。
いきなり、手を払いのけられたのだ。
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