おかしくなった世界の話(1)
【私と猫は大きな水しぶきを上げ、つづらから飛び出した。ゲホゲホとせき込む。
障子の向こうは明るい。この屋敷へ来たときは夜だったが、もうすでに昼時のようだ。
雀の姿もなく、私と猫と大きなつづらだけが取り残されている。
屋敷の中を見て回ったが、人の姿も雀の姿も、家財道具も何一つないもぬけの殻だ。
「一度、麓に行った方がよさそうですね」
そうつぶやくと、猫が私に向かってうなずく。たぶれっとがないので通訳はできないが、彼との意思疎通にも慣れてきた。
大きなつづらを試しに動かしてみると、その見た目に反して軽々と持ち上げることができた。水はなみなみとつづらの中に溜まっており、床には穴も何もない。やはり、このつづらそのものが、あの中間世界とつながっているのだ。
再びつづらに潜り込んで、話者ともでる読者に文句の一つも付けたいが、連中が出口に蓋をしている可能性もある。そうすれば、私は溺死を免れない。
つづらに蓋をして背負う。歩き出すと、猫も並んで付いてくる。
まずは麓の様子を確かめるのだ。そして雀を見つけ出し、このおかしな状況を修正させるほかない。】
山道は、往路よりもずっと短く感じた。それは山を登るときに有島がたぷたぷの腹を抱えていたから、あるいは、雀のお宿がその役目を終えたからかもしれなかった。
吾輩も「語り手」として認知され、登場人物の一員となった以上、こそこそと動く必要がない。近道を見つけたら、鳴いてそれを伝えることも許される。
つづらは大荷物だろうと思ったのだが、どうやら重さはそれほどでもないらしい。有島は軽快に山道を進んでいく。岩がごろごろしていても、下駄の音は乱れない。ちょっとした川は、吾輩を抱いてひょいと跳び越してしまう。
もしかしたら、有島も少しずつ改変されているのかもしれない。少し滑稽で、人間離れした動きが目立っている。
そうこうしているうちに街へとたどり着いたのだが、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
街が燃えている。
爆弾でも落とされたのだろうか、半壊した家屋も見受けられ、その横を人々が逃げまどっている。子どもを抱えて走る女性のすぐ後ろに駄菓子屋の看板が崩れ落ちるのが見え、吾輩は肝を冷やした。
ずずず、と鈍い音が響く。地鳴りのように思えたのだが、やがて音が頭上から降り注いでいると分かった。
辺り一帯が陰る。見上げると、巨大な円盤が頭上を通過していくところだった。推察するに、この阿鼻叫喚はこいつの攻撃によるものだろう。
「そこにいたら危ないわよ、どきなさいっ」
前方から駆け寄って来る者がいる――梅ちゃんだ。
髪を振り乱し両手にマシンガンを構えた姿は、立派な兵士だ。しかし身にまとっているのは着物。きっとモデル読者は頭を抱えているだろう。
「やつらは『支配者X』。悪いことは言わないから今すぐ避難して」
「う、梅ちゃ――」
「説明は後っ」
有島の言葉を遮り、梅ちゃんは空へ向かって銃をぶっ放した。連射音のすさまじさに有島は耳をふさぐ。
「くそったれぇぇぇ、ケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろかいぃぃぃぃ」
そのまま梅ちゃんはどこかへ走り去ってしまう。
その背中を見送りながら、有島が「梅ちゃん……」とこぼした。立ち尽くす姿に哀愁が漂っている。
順調に世界はおかしくなっているようだ。
【「くそったれぇぇぇ、ケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろかいぃぃぃぃ」
耳慣れない台詞を吐いて――それでも口汚い罵りであることは分かった――梅ちゃんは走って行ってしまった。
今何が起こっているのかを確かめようもない。無論、聞いたところで要領を得ないことは承知している。
頭上の円盤は何なのだろうか。梅ちゃんが抱えていた黒いものは何なのだろうか。
私は知らない。きっと神のみぞ知ることなのだろう。もちろん、その神とは「作者」に他ならない。もしかしたら猫が知っているかもしれないが、今は聞けない。
それよりも重要なのは梅ちゃんだ。私は彼女に淡い恋心を抱いていた。おしとやかで、だけれどもしたたかな一面をもつ彼女。実を言えば、彼女の父にも「娶ってもらえないか」と言われていた。
その彼女が、よく分からない人間へ変貌してしまった。
後ろ姿を見送りながら、私は「梅ちゃん」とその名を呼ぶしかない。
猫が私の方を見ている。悪いが、憐憫などいらない。その代わりに、私の中にはふつふつと湧いてくるものがあった。
「雀……」
私の愛していた彼女。もしかしたら、二人で幸せな暮らしを営めたかもしれない彼女。それをここまでめちゃくちゃにしてしまった雀に対する怒りが、私の中に充満していた。
怒りのせいだろうか、これまでの記憶が私の中を駆け巡る。
――不意に目の前を、小さな影が横切った。群れからはぐれた雀だろうか?
――「それにしても、おかしな具合ですな。雨だと言うのに目の前を雀が飛んでいくわ、酒屋の前には猫が居座っているわ」
雀は私や高津に姿を見せた。
「バーの近くだ」
私はつぶやき、駆け出した。】
「バーの近くだ」
つぶやいたかと思うと、有島は突然走り出した。脱兎のごとく、とはこういうことを言うのだろう。吾輩を置き去りにしてどんどん行ってしまう。
吾輩も覚えている。バーに向かう道中、我々の前を雀と思しき影が横切ったこと。高津が雀のことを口にしていたこと。
それらの情報から、有島はバーの近くに雀がいるのではと当たりを付けたのだろう。無論確証はないが、最初の切り口としては申し分ない。
有島は風のように通りを駆け、吾輩は彼を見失ってしまった。向かう先は分かっている。だから、要らぬ心配はしないようにしよう。
ふと前方に人影を認めた。有島ではなさそうだ。その足取りはおぼつかず、ふらふらと左右に触れている。有島は一直線に向かってしまったから、たぶん気付かずに脇を通り過ぎたのだろう。
ふしゅう、という呼気。生気を失った肌。白く濁った眼。剥き出しの歯。
吾輩はとっさに路地裏へ身を隠した。アレが何かは分からないが、猫としての本能が危険を察知したのだ。
ズル、ズル、ズル。
それは辺りをうろうろとしているようだ。相変わらず動きは遅い。
建物の影からそっと顔を出してみると、そいつの全体像が見えた。
――高津である。
吾輩は音を立てずに舌打ちした。これまで、有事の際に情報をもたらすのは高津と決まっていた。しかし今、彼は明らかに正気を失った様子で歩き回っている。貴重な情報源が一つ失われたのだ。
高津の着ている高級な洋服には、赤黒い染みが付いている。おそらくは血の跡だろう。白髪も同様で、白と赤のまだら模様だ。
逃げ遅れたのだろうか、質素な身なりの老人が高津の横を走り抜けようとした。
一瞬だった。
先ほどとは打って変わった俊敏な動作で高津は老人を捉え、その腕へ歯を突き立てた。
「ちょっ、痛っ、痛ああああああああああ」
老人が悲鳴を上げる。
高津が肉をむさぼっているのだ。吾輩は思わず頭を引っ込める。
「やめて、痛いからやめてええええええ」
老人のやけに甲高い叫び声が聞こえる。今の高津に姿を見られれば、吾輩も同じ末路をたどるだろう。
今の高津は、吾輩と有島が知っている彼ではない。きっと『生ける屍』とはあのような者のことを言うのだろう。
【いつの間にか猫の姿が見えなくなっていた。仕方あるまい、きっと後から追い付いてくるだろう。
それよりも、雀の居所を突き止める方が先決だ。私は勢いよく引き戸を開けた。
そして足を止める。
店内に客はなく、バーの主人が頭を抱えてうずくまっていたのだ。円盤の攻撃で怪我でもしたのだろうか。それとも他の改変によるものなのだろうか。
「どうかしたのです?」
結局、私にできるのは通り一遍の台詞を口にすることだけだった。
「う……」
バーの主人が振り向く。その顔は苦悶に歪んでいるが、身体に傷は見当たらないし、こちらに危害を加えようという素振りもない。
「有島です。分かりますか?」
「有島……さん?」
様子がおかしい。すぐにでも「おかしな雀を見ませんでしたか」と尋ねたいところだが、それははばかられた。
「すみません、僕はあなたのことを何も覚えていない」
主人が似つかわしくない言葉を吐く。声も若々しい――先日までは酒焼け丸出しのがらがら声だったにも関わらず。まるで別人の霊魂が乗り移ってしまったようだ。
「おかしいな。さっきまで僕はブラック企業で深夜までの残業をしていて……突然意識が遠くなって……女神さまが『スキルを授けよう』って……」
何の話をしているのか全く分からない。ぶらっく? すきる?
「ま、まさか!」
主人が大きな声を上げたので私は飛び上がってしまった。何が起こっているのだ?
「ここは異世界か?」
私に聞いているのではない。何かに納得したように、主人は顎に手を当てて一人うなずいている。
「ステータス」
耳慣れない言葉を吐いて、主人は何もない空間を見つめ始めた。腕を伸ばし、あたかも目の前に何かがあるように、指をちょんちょんと動かしている。それは、たぶれっととやらを操作する話者たちの動きに似ていた。
「レベルの数値からして、女神の言っていたことに嘘はないようだな」
納得したのか、うんうんとうなずき、私に目を向けた。
「すみませんが、僕のスキルを試させてください。鑑定」
攻撃や爆発を予想して身構えたが、何も起こらない。私は見られているだけだ。主人にはやはり、私には知覚できない何かが見えているようで、本を読むように目を動かしている。
「何だって、まさか、いやそんなことは――」
重大な発見でもあったのだろうか。
私は半ば投げやりな気持ちで尋ねてみる。
「何かありましたか?」
「こんな序盤に――。でも、無いとは言えない」
主人の眉間にしわが寄る。早くこの状況を脱して、雀の居所に関するヒントを得たい。
不意に主人が手近な椅子を手に取った。座るのではない。明らかに、武器として構えている。
「ここへ来て最初に出会ったのが『魔王』とは。きっと僕が自分の使命に気付く前に始末するつもりだったのだろうが……残念だったな。僕は『勇者』としてあなたを倒す」
全く意味が分からない。「魔王」はゲーテの戯曲で、文学界でも話題になったので知っている。だが、この場で主人がそれを引き合いに出すのもおかしい。
今分かるのは、主人が私に危害を加えようとしていることだけだ。
「くらえ、ファイヤーソード!」
主人の手にした椅子が瞬く間に燃え上がり、私へと振り下ろされる。すんでのところで身をかわすことができた。
ほとんど炭と化した椅子が、床にぶつかって砕け散る。
「おのれ、ちょこまかと。しかし、これはどうかな?」
主人は、次に机を持ち上げた。何という怪力か。
「いっけええええっ、アイスソード!」
何というか、よくしゃべる。】
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