長くて難しい話(1)

「だーかーらぁ、何やっているんだって」

「違う違う、コントローラーが効かないのよ」

 いさかいの声を聞きながら、吾輩は水を吐き出した。新鮮な空気が肺を満たす。

吾輩の横では、青い顔の有島が同じようにゴホゴホとせき込んだ。日に何度も水を吐き出すはめになるとは、彼もついていない。

【「もとからいろいろなことがおかしかったのよ。明治時代の話でしょ? アイスキャンデーが日本でも販売され始めたのが明治二年、流通し始めたのが明治二十三年。バーが最初に設立されたのが明治十三年。ガス灯が日本に初めて設置されたのが明治十八年。紙めんこが流行っているのは明治二十年代。あ、帝国ホテルが設立されたのも明治二十三年ね。だから、この話は明治二十年代だろうって読みよ。だけど、ニッキ水がちらっと出ているわ。あれは昭和時代の駄菓子よ」

 まくし立てる甲高い声を聞きながら、私は口に溜まっていた水を吐き出す。

 周囲を見回すが、暗くて何も見えない。手探りをすると、どうやら私と猫は箱体に閉じ込められているようだ。棺桶にしては、いやに柔らかい。】

「俺はそんな細かい考証なんて気にしないよ。それよりも雀さ。あれは何だ?」

「あたしが知るわけないでしょう? 有島は、。それが、どうしてこんな話になっちゃっているの?」

 言い争いは終わらない。彼らが何をどうもめているのか吾輩には全く分からないが、ひとまずこの空間を脱さなければならない。人とは違い、吾輩にはぼんやりと周囲が見えている。我々は水浸しのまま、何かに覆われているのだ。

 隣で有島がごそごそとしている。彼も吾輩と同じ考えのようだ。

 吾輩も倣い、肉球で壁に触れた。何やら柔らかい。押し開こうと力を込めるが、突っ張ってそれ以上びくともしない。

 隣で有島が「いひひ」と気持ち悪い声を上げた。こんなときに笑っているとは、気でも触れたのだろうか。だとしたら、一刻も早く有島を明るい場所へと連れ出さねばならない。

 吾輩は思い切って壁に爪を立てた。

【猫が動くたび二の腕に毛が触れてくすぐったく、思わず「いひひ」と声を上げた。

 次の瞬間、ぷしゅっ、という空気の漏れる音が耳を突く。蒸気機関車の発車音にやたらと似ていた。

 箱の底に溜まった水とともに私と猫は押し流され、まばゆい光が全身を包む。

「うおおおお、なんだ?」

「ちょっと、どういうこと?」

 外にいた二人の人間が、私を見て驚いているようだ。しかし突然のまぶしさに目が慣れず、その相貌を見て取れない。

 思うように動かない手足を何とか突っ張って、私は立ち上がった。】

 有島が立ち上がった。とっさに吾輩はその背後へと隠れる。いきなり明るい場所へと出てしまったのだ。我々猫は明順応に弱い。目が慣れるまでにはもうしばらくかかる。

「うそ、こっちに来てしまったの?」

 戸惑ったような声がこぼれる。空中に浮かんでゆっくりと霧散していくような、か細い声だ。先ほど言い争っていた威勢はどこへやらである。

 目をしょぼしょぼさせながら、吾輩は口を開く。ここにいるのが誰であれ、まずは状況を説明してもらわねばなるまい。そのためにも、舐められぬように強気に出た方がよかろう。

「まずはそちらから名乗れ」

【「にゃあにゃあにゃあにゃ」

 猫が何か言う。威嚇しているのか、しっぽが二倍にも膨らんでいる。

「あの猫、もしかして語り手か?」

 そう言うのは、細身の男だ。異国の文字が書かれた白い服を着て――これも洋服なのだろうか――鼻の上には眼鏡が乗っている。眼鏡など高級品であるから、この男は相当な成金なのだろうか?

 猫の名はカタリテと言うらしい。聞き覚えのない言葉だ。

「あんたはもちろん、主人公ね」

 男の横で、女が言う。私のことを見ているから、シュジンコウとは私のことを指しているのであろう。

「シュジンコウではありません、有島です」

「そうね、どっちでもいいわ」

 そっけない返事だ。顔はどう見ても日本人だが、髪が異様に明るい。金髪と言うのだろうか、西洋の女性はこのようだと話に聞いた。

 この女も、隣の男と同様、見たことのない服装をしている。面妖な模様が描かれた白服――黄色い顔面がにたりと笑っているように見えるが――に、青い段袋ズボン

「いいわ。ひとまずお互いに落ち着かないと。ひとまず座りましょう」

 女に促され、私は部屋の隅にある椅子へと腰かけた。椅子の脚先には丸い何かが付いていて、きゅるりと音を立てる。座ったまま移動できるらしく、少し動かしてみるとこれは面白い。】

 ようやくいつもの見え方を取り戻した吾輩の目に飛び込んできたのは、椅子のような怪しい装置に腰掛けて、前後に身体を揺さぶっている有島の姿だった。拷問でも受けているのか、と身構えたのもつかの間、有島がにやにやしながら声を発する。

「これはすごい。すごい。面白い」

 どうやら楽しんでいるだけらしい。仕方がないので、有島の脇にある同じような椅子に、吾輩も飛び乗る。

 殺風景な部屋だ。四方は真っ白な壁に囲まれている。見たことのない素材で、木でもなければ漆喰でもないようだ。逆に、床は木で作られている。しかもやたらと整った木で、畳のような凸凹がない。

 一つだけ壁に赤いボタンが付いている。ご丁寧に、「絶対押すな」の張り紙付きだ。何の冗談だろうか。

 男と女はなんとも言えない表情で、はしゃぐ有島を見ていた。それに気付かぬ哀れな有島は、けたけたと笑いながら椅子をまだ揺さぶっている。

 男女の向こうには、巨大な水槽のようなものが掛かっていた。高級そうなガラスだ。その向こうには家や道があり、人が動いている。しかしそれらはやたらと小さいのだ。この男女は、小さな人間を飼っているのだろうか?

 ガラスの枠からは細い紐のようなものが伸び、それが橙色の機械とつながっている。キノコのような突起がいくつも付いた、不気味な機械だ。

「モニターを一回消して。コントローラーも片づけてちょうだい」

 女に言われ、男がガラスの枠へと手を伸ばした。プツン、という音がして、ガラスの向こうが真っ暗になる。横を見ると、有島はその不思議な装置に目を奪われているようだった。男は毒々しいキノコの原木のような機械も、ガラスの脇へと片づける。

「さて、改めて自己紹介しましょう」

 女がきりっとした調子で言う。

「あんたたちのことは知っているわ。有島に、語り手よね」

 吾輩のことを知っているとは、この女、ただ者ではない。吾輩の担った役目を知っている者は無く、また誰にも知られずに遂行されるべきものだからだ。

「あたしは『話者』。そして、この男は『モデル読者』よ」


【自らのことを「話者」と呼ぶ女は、腰に手を当てた偉そうな佇まいで、値踏みするようにこちらを見た。一方、「もでる読者」なる男は頬を掻きながら困ったように顔をしかめている。

 何はともあれ、情報が必要だ。

「私たちは、雀の『大きなつづら』を開けてここへ来ました。あなた方が存じていることを教えていただきたいのですが」

 女が大きなため息をついた。

「そうね。あんたたちも不安だろうし、ここまでめちゃくちゃなら、何を話しても同じか」

 その隣で、もでる読者もうなずいている。

「でもその前に、あんたたちがこれまで何をして、どうなってここに来ているのか、まずそれを説明してくれない? 何から話せばいいのか整理したいから」

 なるほど、この現象に驚いているのは向こうも同じということか。つまり、敵対関係ではなく協力関係を築くことができれば、私たちに味方してくれるかもしれないということだ。とすれば、こちらの情報を出し惜しみする必要などどこにもない。】

 作家と言うのはやはり頭の回転が速いらしい。ここに至るまでの出来事を、有島は過不足なく説明してみせた。話者とモデル読者もふむふむと聞き入っている。

「あたしたちがモニターで見ていたことと合致しているわ。嘘もついていない。そして、についてはやっぱり何も知らないのね」

 有島は勢いよくうなずいてみせる。

「そう、この世界は何なのかを教えてほしいのです。これだけ摩訶不思議なことに巻き込まれたことなどありません」

「その前に、そっちの猫ちゃんよ」

 女が吾輩のことを指さす。

「あんたの方が、有島よりも知っていることは多いでしょう?」

 吾輩も説明をせねばならぬようだ。有島に負けず劣らず、語ることに関しては吾輩も専門家と言えよう。

「そもそも吾輩は――」

【「にゃあにゃあに――」

 話者ももでる読者も、気が触れているのだろうか? 猫が話せるわけもない。

 たしかにこの猫はずっと私のそばにいて、今までも椅子の上でまるで人間のように話を聞いていた。しかし、現に猫が発したのは鳴き声に他ならなかったし、それを聞く二人も怪訝な表情だ。

「忘れていた、アレがいるわ。ちょっと持ってきて」

 催促され、もでる読者が何かを取りに走る。

 戻ってきた彼の手には、かまぼこ板のような機械が握られていた。どのような仕組みなのか前面が光っており、非常に整った文字がそこへ浮き出ている。

「猫ちゃん、もう一度初めからお願い。あんたの語ったことがこのタブレットに記録される仕組みなの」

 かまぼこ板のようなものは、と言うらしい。私と話者ともでる読者、三人でそれを囲む形になる。

 猫は再び話始めた。

「にゃあにゃあにゃあ――」】

 吾輩に語ることができる経緯など、たかが知れている。経験したこと、見聞きしたことは有島と何ら変わらない。

 ただ一つ違うのは、吾輩が「語り手」という役目をもって生まれたことだけだ。陰から有島を見つめ、その様子を頭の中で言葉にしていく。誰から頼まれたわけでもなく、吾輩は生まれながらにして「語り手」だった。他の猫が餌を求め排泄し眠り起き発情期を迎え子を宿すのを尻目に、吾輩は本能の赴くままに語った。

 タブレットとやらを通して、三人は吾輩の言わんとするところを理解したらしい。やがて、話者がため息をもらし、金色の髪をわしゃわしゃといじくった。

「つまり、有島も語り手も、この世界そのものについては何も知らないってわけね」

 初めから有島がそう言っている。

「次はこちらから説明をする番ね。理解しがたいこともあるかもしれないけれど、飲み下してもらえるとうれしいわ」

 吾輩と有島がずっと求めていた情報である。有島も表情を険しくして、話者の説明を待っている。

 話者は何から話すべきか迷っている風だったが、覚悟を決めたのか凛とした声で言いきった。

「あんたたちの生きていた世界は、物語なの」

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