何でもない日常の話(2)

 家へと帰った有島は、そのまま柳田婆さんの家を訪ねた。婆さんは驚いたようだったが、有島がぜひとも話を聞きたいというのに押し切られ、家に招き入れた。

「それで、何が聞きたいと?」

「舌切り雀について詳しく教えていただきたいのです。柳田さんならご存じかと」

「おらはただ語り継いでいるだけ。舌切り雀のようなよく知られた話なんざ、その辺の子どもたちの方がよく知っております」

 有島は、そこをなんとか、と頭を下げる。

「本当に先生は、何か気になることがあると居ても立っても居られない性分でございますな。舌切り雀の何が気になるのかおらには分かりませんが、仕方ありません、お話ししましょうか」

 婆さんは、とつとつと、しかし抑揚の聞いた声で語り始めた。

 爺さんがかわいらしい雀を拾い、家へ連れ帰る。しかし、婆さんが障子を直すために作った糊を雀が食べてしまい、怒った婆さんは雀の舌を切って追い出す。たいそう悲しんだ爺さんは、雀のお宿を探し出し、そこでもてなしを受ける。別れ際、雀たちは大きなつづらと小さなつづらを土産として差し出す。爺さんは小さいつづらだけをもらって帰るが、その中には大判小判がざくざくと入っていた。それを見た婆さんは自分も雀のお宿を目指し、同じようにもてなしを受ける。婆さんは土産に大きなつづらを選んで持ち帰るが、その中には化け物や蛇が入っていて、婆さんの命を奪ってしまう。

「ざっとむかし、さけえもうした」

 婆さんは話の幕を下ろす。何の変哲もない、誰もが知っている昔話だ。

「雀のお宿は、どこにあるのですか?」

「どこにと言ったって、これはただのお話ですからね」

「爺さんはどうやってお宿へ?」

 婆さんは、ふむ、とうなった。

「舌切り雀の語りには、いろいろな種類があります。そのうちのいくつかでは、爺さんは雀のお宿を見つけるために、ある試練を乗り越えねばならぬのです」

「試練?」

「牛馬を洗った水を、桶何杯分も飲み干さねばなりません。聞いた中には、牛馬の小便や血を飲まねばならぬ、という場合もあります。一番易しいものでは、子どもの作った泥団子を食います」

「それはまた、とんでもない試練ですね」

「だからこそ、爺さんの雀に対する深い愛情が際立つのです」

 有島はぼりぼりと頭を掻いた。小さくため息をつく。

「試練を乗り越えれば、雀のお宿への行き方が分かると?」

「ええ。馬の洗い水を飲んだなら馬方が、牛なら牛飼いが、泥団子なら子どもたちがお宿の場所を教えます」

「もっとまともな試練はないものですかね? 金一封を渡せば行き方を教えてもらえるとか」

「さあて。これはお話ですからね」

 柳田婆さんとの話はそれで終わりだった。もう夜は深まった。婆さんは明朝も早くから畑に出るだろうから、これ以上話を長引かせることもできない。

 丁寧に礼を言って、有島は自宅へと戻る。その後、暗い書斎に一人座って、長いこと何かを考えていた。


「先生、気でもおかしくなったんじゃないの?」

 そう言うのは岩倉少年である。有島はと言うと、地べたに頭をこすり付けんばかりにして、ひれ伏していた。

「いや、至って正常です。何卒、何卒お願いしたいのです」

「だから、どうしてそんなことを言い出したのかっておいらは聞いてるんだ」

「訳は聞かないでください。どうか、どうか……」

 有島は顔を上げた。見開いた眼には、狂気にも似た決意が見て取れる。

「どうか、私に泥団子を食わせてください!」

 岩倉少年の口元が引きつる。侮蔑でも、嘲笑でもない、紛れもない恐怖の表情だ。

周りにいた仲間たちに、岩倉少年は「こいつ、やべえ。お前ら、行こうぜ」と声を掛け、後には土下座した有島だけが残された。ひゅうっ、と風の吹く音がする。

「先生、ごめんなさいね。うちの前でずっとそうしていられると、商売にも差し障るものですから」

 遠慮がちに梅ちゃんが出てきて言う。

 一晩考えた成果がこれだったのだ。牛馬の洗い汁やら小便やらを桶に何杯も飲むのは御免被る。有島は、何としても「泥団子を食う」という方法で雀のお宿を目指そうとしたのだ。

 我に返ったのか、有島はあたふたと立ち上がり、梅ちゃんに詫びを入れる。

「すみません。よくよく考えれば、あれはお話の中でのこと。私が泥団子を食ったと言って、お宿にたどり着けるわけでもないのでした」

 話の見えない梅ちゃんは、「ああ、そうかもしれませんね」と適当な相槌を打つ。

 奇妙な立ち振る舞いが過ぎて周りが離れかけているのにも気づかないまま、有島はとぼとぼと歩き始める。小さな声でぼそぼそつぶやいているものだから、すれ違う人間もぎょっとした表情だ。

「雀のお宿へ行くには……。お宿……。行くには……」

 論理的な考証が得意な有島にしては珍しい。いや、珍しいどころか、何か異様な事態が起こっているのかもしれない。常識では考えられない程度で「雀のお宿」に執着している。

 唐突に、有島は首をぶるぶると振った。

「何を言っているんだ。それは昔話の内側のことだ。私はあくまで、『大きなつづら』が指す意味を解かねばならぬのだ」

 わずかに正気に戻ったらしい。着物の衿を直し、少しばかりしっかりした足取りで歩き始める。

 石畳の坂を上っていると、怪しげな男に出くわした。

「どうも、先生」

「はて、どこかでお会いしましたかな」

「いえ、会ったことはございません。ですが、私は先生のことをようく存じております」

「それは。私の書いたつまらない小説も、まだまだ捨てたものではないかもしれませんね」

 よく見ると、男は手綱を握っている。その先は林の中へ続き、一頭の馬が繋がれていた。

「先生、知りたいことがあるんでしょう? この馬を洗った汁を、桶三杯分飲み干せば、教えてやれないこともないんですがね」

 有島の目がぐわんと揺れる。

 この男は何かを知っている。そうでないと説明がつかない。有島の脳内を、ありとあらゆる情報が駆け巡っているのが分かる。

「いえ、無理ならばいいんですよ」

 男は図々しくも、そんなことをのたまう。有島はしばし硬直していたが、やがて短い言葉を絞り出した。

「小便じゃなくて良かった……っ」


 木の根元に有島は嘔吐した。これで三度目だ。それでも彼の腹は膨れている。

 馬の固そうな毛が浮いた洗い水を、有島はすべて飲み干してみせた。満足そうな男に雀のお宿へ行く道を教わり、こうやって吐きながら山へと分け入っているのである。

 獣道を数十歩歩いてからまた吐く。汚い水音と苦しそうな声。これだけ騒々しくしていれば、熊やマムシも寄ってこないだろう。

 昨日の雨の名残で、湿った土のにおいがする。まだ日は高いはずだが山の中はほの暗い。濡れた羊歯の葉が有島のすねを撫でている。

 山頂にたどり着くまでに、有島は都合十三回嘔吐した。それでようやく壺のように膨らんだ腹が引っ込み、調子も落ち着いたようである。

「アイスキャンデーが食べたい」

 有島はつぶやく。過去に一度だけ、高津からアイスキャンデーをごちそうされたことがある。あの冷たさと爽快さを忘れられないのだ。洗い水を大量に口から出し入れした身としてはなおさらであろう。

 アイスキャンデー、アイスキャンデーと言いながら草木をかき分けた先に、明かりが見えた。檜だろうか、豪勢な造りの玄関に、提灯が二つ。室内で行燈でも焚いているのだろう、障子の向こうにも明かりが揺らめいている。

「雀のお宿……?」

 有島はゆっくりと、しかしためらいなく近づき、引き戸に手を掛けた。からからから、と軽い音を立てて戸が開く。

 果たして、玄関には雀がいた。青い着物を着ている。それはいやに人間じみた動きで、小さな体をぺこりと折り曲げた。

 有島は下駄を脱ぎ、中へと足を踏み入れた。見計らったように、雀が先に立って進み始める。

「本当に、あったのか」

 有島がぼそりとこぼす。昔話どおりに馬の洗い水を勧めてくる男、それを飲み干した有島自身、山奥の豪邸、そして人間のように振舞う雀。雀のお宿が現実にあるも何も、不思議なことばかりが起きている。まるで昔話の中に入り込んでしまったかのようだ。

 雀が案内したのは、玄関からほど近い、客間と思しき部屋だった。広さは八畳ほどだろうか。行燈の中で蝋燭の火が揺れている。蝋など相当な高級品であるはずだ。

 部屋の中央に、つづらが二つ置かれている。右手側に大きなつづら、左手側に小さなつづらだ。雀はその間に立ち、両羽根を広げる。

 どちらかを選べ、と言うように。

 この物語はやはり「舌切り雀」であるようだ。二種類のつづらが出てきたことがその証左であろうし、雀は一言もしゃべらない。

 有島は、雀の前に正座した。

「ある人のもとに、モールス信号で『大きなつづらを選べ』と電話がありました」

 雀は何も言わない。黒々とした目で、有島を見つめ返している。

「私は、あなたが電話を掛けたのではないかと思っています。その嘴で、ダイヤルを回し、何かを引っ搔いて信号を送ったのでは?」

 それが非現実的な妄言であることは有島だってよく分かっているはずだ。しかし、現に「舌切り雀」を前にして、現実と非現実の境目はすでに溶け始めている。

「舌を切られているから、返事もできないでしょう。いずれにしても答えがもらえるとは僕だって思っていません。私が『大きなつづら』を選べば、あなたの意図はやがて分かります」

 有島は、すすす、と大きなつづらの前へと動いた。雀は黙ったまま、有島の姿を目で追う。

 つづらはどこにでもある格好で、ツヅラフジの蔓を編んで作ったものだ。蓋に手を掛けると、かさりと乾いた音がする。

 有島は躊躇なく蓋を開けた。瞬間、わずかに靄が立ち上がるが、すぐに消える。入っていたのは毒虫か蛇か魑魅魍魎か。それともつづらと見せかけた玉手箱か。

「水ですね。それもかなり深い。床下まで通じているのですか?」と有島は言う。

【「水ですね。それもかなり深い。床下まで通じているのですか?」と言う。私の目の前では、大きなつづらが開いた状態になっている。その中は、水で満たされていた。お世辞にもきれいとは言えない水で、やや緑色がかっている。だから水の向こう側を見通すのは難しいのだけれど、目を凝らしてみる限り、つづらの中に水が溜まっているわけではないらしい。つづらを入口にして、深い深い海のような何かがこの奥に開けているのだ。そして私は違和感を抱く。雀へと視線を向けるが、それは相変わらず押し黙ったまま首をかしげた。答えはもらえないらしい。さらに視線を転ずる。座敷の隅には、ここまでずっとついてきていた野良猫が鎮座している。私は猫を見つめる。】

 有島は見つめる。

 吾輩は常に有島を見つめ、その姿を語ってきた。時にはその心情を推察して語ることまであった。逆に、有島は吾輩に気付かなかった――あるいは気付いたとしても気にしなかった。

 その有島が、吾輩を見つめている。

 何か異変が起きているに違いなかった。吾輩はここに介入してはならない。ここにいるはあくまで有島と雀だけなのだ。

 有島が私を抱き上げる。

【私は猫を抱き上げる。猫は大人しく、されるがままになっている。あるいは戸惑っているのかもしれない。

 軒先から私のことをずっと見ていた猫。バーの戸口で雨宿りしていた猫。柳田さんの家にまで付いてきた猫。

「あなたは何者ですか?」

 私は問い掛ける。】

「あなたは何者ですか?」

 吾輩は問い掛けられる。吾輩は有島の姿を追う者である。名前など無い。

 ただ、役割だけはある。誰に与えられたものかも定かではないが、吾輩がこの世界へ生み出されてから、ずっと担っている使命。

 吾輩はそれを口にする。有島に伝わるだろうか。理解してもらえるだろうか。

「吾輩は語り手である」

【「にゃあにゃあにゃあ」

 私の問い掛けに、猫はそう返事をした。それはそうだ。猫が人語を理解し、挙句話せるとは思っていない。

 意思の疎通はあきらめるが、こいつがただの猫とは思えない。

 とにかく、すべての答えはこのつづらの中にあるのだ。

 猫を抱えたまま、私は改めてつづらのなかを覗き込む。碧い水が揺れている。

 雀が私の足元までやって来た。何やら急かしているようだ。ここまで来て、しっぽを巻いて逃げ帰るのも口惜しい。

 猫が「にゃあ」と鳴く。

 私はうなずいて、つづらの奥へと飛び込んだ。】

 有島がしようとしていることを悟った私は、「やめろ」と止めた。しかし、何を勘違いしたのか有島はうなずいて、つづらの中へと飛び込んでしまった。

 当然、吾輩を抱いたままである。全身を水の冷たさが覆い、呼吸はできず、目は開かず、吾輩は軽いパニックに陥った。とは言え、それで暴れて有島の懐から離れてしまえば、それこそ二度とは生きて戻れないであろう。吾輩にできるのは全身を硬直させて、有島に身をゆだねることだけであった。

【水は冷たかったが、不思議な浮力がはたらいているようで、猫を抱いた姿勢でも泳ぐことができた。

 猫は私の腕の中で大人しくしている。きっとこの猫は、全幅の信頼を私に寄せ、運命をともにしようとしているのだ。私もそれに報いる必要があろう。

 つづらの奥には、予想どおり、広い海が広がっていた。底も見えぬほど、果てしない海である。下へ目を向けると、真っ暗な深海に、見えない何かが大口を開けて潜んでいるようで空恐ろしい。

 前方に目を戻すと、光が差し込んでいる。

 私はその光へ向かって水を蹴った。】

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