にいさま、もーっと怖い話をしましょう⑫
「きみの正体は――――、未完の怪談そのものだ」
僕は妹に向かって告げた。
対して、妹はキョトンとした様子で小首を傾げている。
「私が? 未完の怪談?」
「ああ」
「はて……にいさま、それはいったいどのような意味でしょうか?」
「そのままの意味だよ」
未完の怪談。
怪談屋敷の当主が代々受け継ぎながらも、とうとう完成できなかった怪談集。
それが。
それこそが、この妹の正体。
それが――僕がたどり着いた、ただ一つの答えだった。
「きみはこの屋敷に残された書きかけの怪談集なんだ」
がらんとした広い座敷に、僕と妹は二人きりだった。
二人でいるにはあまりに広すぎる空間。
外から入る月光は部屋の隅までは届かず、薄く伸び広がった夜の暗がりが茫漠と畳の上に漂っている。夜明け前の静けさの中では、ちょっとした衣擦れの音がやたらと大きく響いて聞こえた。
「きみの正体は、無人の屋敷に書きかけのまま残されてしまった未完の怪談集。これまでのきみの行動もすべてそれで説明が付く」
書きかけの物語であるがゆえに、貪欲に新しい怪談ネタを求め続ける。
未完の怪談であるがために、終わりのない恐怖を繰り返す。
――にいさま、怖い話をしましょう。
何度も繰り返し怖い話をしようと言ってきたのもそのためだ。
僕は妹と向き合って、彼女の返答を待った。
しかし、妹はクスリと笑って、
「その言い方ですと、なんだか私がただの物みたいに聞こえてしまいますけども」
などと、いつものようにのらりくらりとした態度を崩そうとしない。口元に笑みを浮かべ、すべてを見透かしたような目で僕をその視界に据えている。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
もうこれ以上、他人のペースに身を任せていてはいけないのだ。
「そうじゃないよ」
僕はつとめて平静に言葉を続ける。
「未完の怪談という言い方が適切でなければ、この屋敷に蓄積され続けてきた怪異譚……その膨大な記録の結果と、そういうふうに言い換えてもいい」
「ますますよく分かりませんね」
妹はあくまでしらを切り通すつもりらしかった。
僕は軽く息を吐く。
「分からないってことはないだろ。きみの話なんだ」
僕が言うと、妹はやや思案したような顔をして、
「つまりにいさまは……、この私が古い怪談本の妖精か
「それも少し違う」
「あら。でしたら、どういうことですか?」
妹は僕の話を真剣に取り合ってはいないようで、まるでクイズの答えを探すような軽い調子で僕に問い返してくる。
「にいさま、こういう物言いは失礼とは思いますが……ただの書物や原稿が勝手に私のような人の姿になって動き出したりしゃべり出したりするというのは、いくらなんでも突飛すぎるように思います。そうですね、たとえば……」
そこで妹は迷いつつも「ええ、これはあくまでたとえばの話ですけれども……」と慎重に前置きをして、
「もし私の正体云々を言うのでしたら、まだ私が怪談屋敷にとり憑いた幽霊だとかいうほうが納得しやすい話のように思いますが」
「確かに、納得のしやすさではそうかもしれない」
「では」
「でも、そうじゃない――そうじゃないんだ」
僕は語気を強めて言う。
「最初は僕もきみはこの屋敷にとり憑いた地縛霊か何かなんじゃないかと思った。この屋敷には昔、大勢の人が住んでいたというし、凄惨な殺人事件があったなんていう噂もあった。日記の中にかつてこの屋敷に妹に当たる人物がいたことを匂わせる記述も見つけた」
日記を残した少女がこの屋敷で殺され、その亡霊が、いなくなった屋敷の住人の帰りをいまも待ち続けている……そういう想像をすることは可能だ。
「それに、無念の思いを抱いて死んだ少女の幽霊が古いお屋敷に出る……なんていうのは、いかにも心霊スポットにありがちな話だしね」
「その答えでは……何かいけないのですか?」
「ああ。きみが単なる少女の幽霊だとすると――、今度は僕の存在の説明がつかなくなる」
「にいさまの?」
妹が再度首を傾げる。
僕のこと。妹のこと。
両者の問題は表裏一体、二つで一つの話なのだ。
しかし、いまはひとまず僕の話は置いておこう。
先に妹の――彼女の話をしなければならない。
「きみは言ったね、どんな恐怖が来ても負けないようにあらかじめ恐怖を用意しておけばいいと。日頃から恐怖のストックを用意しておけば、来たるべき強大な恐怖にも難なく対処することが出来ると。そういう話をしていた」
「ええ……、確かにそのようにお話ししました」
「僕なりに考えたんだ。あれはいったいどういう意味なのかって」
妹は言った。なるべく多くの恐怖を集めよと。
僕と妹の物語はそれがすべてだったと言ってもいい。
僕はただ妹に言われるがままに怪談を集め、怪談小説を書いてきた。
その行為の本当に意味するところを理解しようともせずに……。
「でも、その疑問は怪談屋敷の歴代当主の仕事を知ったことで呆気なく解決した。深く勘ぐるような意味は何もなかったんだ。きみはただ、この怪談屋敷で連綿と続けられてきたことを引き継いだだけだったんだね」
僕がそう言うと、妹はわずかに――本当にわずかに――動揺したように見えた。
「僕はこの屋敷のことを何も知らなかった。だから、きみの行動もずっと不可解なものでしかなかった」
だけど、僕はこの怪談屋敷の歴史を知った。
この屋敷が怪談屋敷と呼ばれる
「何百年も怪談を集め続けている屋敷なんてそうあるものじゃない。その歴史を引き継ごうとするきみの意思は尊重してもいいものだと、いまはそう思っているよ」
怪談屋敷の歴史。怪談屋敷の当主が代々引き継いできたもの。
この屋敷で行われてきた怪談蒐集の営みは、巷間の噂の中に埋もれさせておくにはあまりに惜しい。
いまなら素直にそう思える。
僕が思ったままを述べると、妹は少し顔をそらして、
「ええと……、にいさまにそのように言っていただけると、私としても満更ではありませんが……」
そう言って、いつになく気恥ずかしそうにもじもじとしていた。
が、すぐに気を取り直したようで、
「――ですけど、それは私の言動の動機を説明するものであっても、私が書きかけの怪談集だと主張することの証拠には……なりませんよね?」
「そうだね。これだけだと根拠としては弱い」
そうなのだ。「妹が怪談屋敷の歴史に
由緒ある怪談屋敷の歴史を断絶させないためにひそかに怪談を集めようとする少女が現代にいたとしても……いや、それはそれで奇妙な話ではあるが、幽霊や妖精の実在を問うことに比べれば、それほど不思議なことではない。
しかし。
ことはそう単純ではない。
落ちぶれた屋敷で謎の少女が怪談を集めているというだけの話ではないのだ。
「そこまでおっしゃるからには、にいさまは何か決定的な証拠をお持ちというふうに考えてもよろしいのでしょうか」
「そうだね。あるよ、これ以上ない決定的な証拠が」
「随分と自信がおありのようですね。では、その証拠というのはいったい――」
「――――僕だ」
妹が話し終えるのを待たずに僕は言い切った。
「自分の名前も記憶もない、この僕が証拠だ」
僕の回答を聞いて、妹は怪訝そうに眉根を寄せた。
「にいさまご自身が?」
「ああ。正確には、僕が何も覚えていないことが――かな」
「何も覚えていないことが、私が書きかけの怪談集だと主張する証拠だと?」
「そうだ」
「それは……ただにいさまが記憶喪失になっているだけという可能性は?」
「その可能性もある」
「でしたら」
「だけど、それも違うと思う」
「なぜです」
僕は自分自身のことを何も覚えていないと思っていた。
自分の名前も記憶も持たない不安定な存在だと、そう思っていた。
しかし本当は、自分のことを真面目に意識せずにいた、というほうが正確なのではないか。
自分の名前は何か。自分がいままで何をしてどういうことを考えてきたのか。何を目的に行動して、誰のことを思って生きてきたのか。
そういうことを深く考えず、ないがしろにしてきたのが、僕という人間の問題だったのではないか。
誰かに言われたからそうした。
誰にも言われなかったからそうしなかった。
流されて。
促されて。
過去を忘れ、現在をやり過ごして、未来を考えないようにする。
だけど、それではいけないのだ。
「さっきここで僕自身のことが書かれた小説を読んで、僕も自分のことを少し思い出してきたんだ」
そうして記憶を確認していって、いままで僕の身に起こってきたことを順番に思い出していくと、いまさらながら気づくことがある。
いろいろ矛盾することが多すぎるのだ。
いまの僕の記憶はひどく途切れ途切れになってしまっている。
それは、僕の前で起こったことが何もかも途切れ途切れだからだ。
この屋敷に来てからさまざまな恐怖が僕を襲った。
そして、恐怖が極限に達すると記憶や認識そのものがリセットされる。
なのに、時間はそんなことに関係なく進んでいく。
矛盾どころの話ではない。
前後の整合性がなさすぎる。
これはどういうことなのか。
矛盾点は他にもある。
たとえば、この怪談屋敷の噂のこと。
高校転校の初日、僕はこの町に伝わる独特な風習について聞いた。
この町には怪談屋敷という古いお屋敷があり、その屋敷で怪談会が行われていたことに由来して、町の人々は世間話をするように、当たり前に怖い話をしている。
しかし、その風習のことを聞いたのはその日だけで、以降はそんな奇妙な習慣を目にすることはなかった。おかげで怪談小説の短編一本書くのにも苦労した。小説執筆のネタを探して、わざわざ他人の恐怖体験を聞いて回ったくらいだった。
みんなが怖い話をしている町だったら、あんな苦労をすることもなかっただろう。
では、いっときだけ存在した、あの奇妙な風習はいったいなんだったのか?
「いま思えばあれは、僕が学校にすぐ溶け込めるようにっていうきみなりの配慮だったんじゃないか? きみからしてみれば、怖い話をすることと世間話をすることはほぼ同義みたいなものだからな。どうもそれでは上手くいかないと分かって、すぐに取りやめてしまったみたいだけど」
「私が配慮すれば町の習慣があったりなかったりするようになると?」
「違うか?」
「違うも何も……にいさまはそんな全知全能の神様みたいなことがこの私に出来ると、本気でお思いなのでしょうか?」
「きみだから出来るんだ」
「私だから?」
「そうだ」
「よく分かりませんが……。だとしても、そのことが私が書きかけの怪談集だという主張と何か関係があるのですか?」
「きみが書きかけの怪談集でないと出来ないことなんだ」
僕は妹の顔を見つめると、グッと両手を握りしめ、話を続けた。
「おかしいことはまだある」
たとえば、空き家になって心霊スポットになっていたはずの怪談屋敷で僕と妹が普通に生活できていること。
たとえば、存在しない妹を探して消えたクラスメイト。
たとえば、小説を書いただけで狂気に染まってしまった部活の先輩。
たとえば、何かを思い出せと迫ってくる名も知らぬ後輩。
たとえば、死んだはずの友人が学校にいて家まで遊びに来る。
たとえば、いつのまにかこの屋敷で怪談をすることを受け入れてしまっている僕自身のこと……。
ひとつひとつ挙げていけば切りがない。
「どうしてこんなにも矛盾やおかしなことが多いのか。いろいろ考えたよ。僕が幽霊にとり憑かれている。僕があの世に呼ばれている。僕が過去に起こったことを忘れている。僕がなんらかの方法で記憶を消去されている。僕が夢と現実の区別がつかなくなっている……」
自分が見ているものが夢なのか現実なのか。
それが、僕を苦しめる問題でもあった。
「でも、違うんだ。前提が間違っていたんだ」
「前提?」
「そうだ。きみの言う通り、夢か現実かなんてことはどうでもいいことだったんだ。そこはこだわるべきポイントじゃなかったんだよ」
繰り返される時間。
書き換えられる現実。
それらを説明する唯一の答え。
それは――――……、
「そもそもこの世界は現実じゃない。この世界は怪談集の中にある物語の世界だったんだ」
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