にいさま、進捗はどうですか?⑬
そして水族館からの帰り道。
僕たちは再び電車に揺られていた。
隣を見ると疲れが出たのか、後輩は僕の肩に軽く寄りかかる格好でうつらうつらとしていた。その姿がひどく愛しく思えて、僕は彼女の頭をそっと撫でる。
後輩は「んっ……」と少し身じろぎしたようだったが、すぐに小さく寝息を立て始めた。
思わず笑みがこぼれる。
夕焼けが車窓の向こう側を流れていく。
暮れなずむ空。赤く染まる街並み。
僕は今日という一日を思い返す。
(なんだかんだで楽しかったよな……)
僕は満足感に浸りつつ、いままでの後輩との思い出を振り返ろうとした。
あれ?
思い出……、思い出?
――そういや、僕と後輩っていつからこんなに親しくなったんだっけ?
なぜだろう。
後輩とはこんなにも良好な関係を築いているというのに、いざ思い出そうとすると後輩との具体的な思い出が何一つとして出てこない。
そんな。
そんなはずは……。
「…………先輩?」
僕が絶句していると、ふいに後輩に呼びかけられた。
「え!? あ、お前、寝てたんじゃ……」
「どうしたんですかぁ先輩、そんなに慌てちゃって」
後輩がじゃれるように笑う。猫のように目を細め、彼女はスリスリとこちらに擦り寄ってくる。
たじろいで周囲を見回すと、いつのまにか電車には僕と後輩の二人だけになっていた。
無人の車両にガタンガタンという軌条の音だけが等間隔に響く。
夕陽が車内を真っ赤に満たしていた。
「ふふっ。先輩、私の寝てるところを見て何を考えてたんですか?」
「い、いや……」
「もしかして、私のこと考えてくれてました?」
「……っ」
「あれ? どうして黙っちゃうんですか?」
「いや、別に……」
「もう、素直じゃないんですからぁ」
後輩が顔を近づけてくるが、僕は視線をそらしてしまった。
狼狽する僕を見て、彼女はクスリと笑ったようだったが、
「それで、本当のところ先輩は何を考えていたんですか?」
「それは……」
答えられなかった。
なぜなら――そのときの僕は一瞬前に自分が何を考えていたのかさえ覚えていなかったからだ。
「先輩、私に隠し事ですか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
なんとか言い訳をしようとしていると、車内にアナウンスが流れ出した。
《 …… 本日もご利用いただきましてありがとうございます―― ……
まもなく終点――、終点―― …… ご乗車のお客様は――…… 》
しかし、電車は止まる様子がない。
それどころか、どんどん速度が上がっていっているような気さえする。
「な、なあ。何かおかしくないか」
「おかしい? 何がですか?」
「だって、この電車……」
「何もおかしくなんかありませんよ。というか――おかしいのは先輩のほうなんじゃないですか?」
「え?」
「先輩のほうがおかしいんじゃないかって、そう言ったんです」
「……どうしてそんなことお前に分かるんだよ」
「分かりますよ」
むしろ私だから分かるんですよ――と、後輩は言い添える。
「私はずっと先輩のことを見てきたんです。それこそ先輩が覚えているよりも前から、ずーっと」
「ど、どういうことだよ……」
「まだ分からないんですか? 先輩って意外と……いえ、かなりニブいですよね」
そう言って、後輩は呆れたようにため息をつく。
「ねえ、先輩――――」
後輩はそこで少しぐっと何かを飲み込んだように唇を噛んだようだったが、
「――――――好きです」
一言、そう言った。
「な、何言ってんだ。こんなときに……」
「こんなときだからですよ」
その声に悲痛な色が混じったように感じて彼女の顔を見れば、目元にうっすらと涙が滲んでいた。
「先輩は……先輩はどれだけ一緒にいれば私のことを覚えていてくれますか? 何回デートしたら私のことを好きになってくれるんですか?」
「きゅ、急にそんなこと言われたって……」
「急じゃないですよ。先輩だってもう思い出しかけているのでしょう?」
思い出す?
いったい何を?
後輩の顔が近づく。
「私、警告しましたよね、気をつけてくださいって」
「気をつけるって……? 何をだよ……?」
気をつける?
警告?
後輩が?
僕に?
いつ?
どこで?
「この町には神様がいないんです。守ってくれるものがいないんですよ」
電車の長い座席の上で、後輩と僕の距離が少しずつ縮まっていく。
「お、おい……」
「だから――、だから私が代わりに守らなくちゃいけないんです」
後輩はほとんど食ってかかるような勢いで僕に接近していた。
「私が守らなきゃいけない。何も知らない先輩を! 何も覚えていない先輩を……! 守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って守って…………、私が――っ! 守ってあげないといけないんですよ……!!」
気づくと――窓から見える景色は夕焼けから闇一色に塗り変わっていた。
「ほら、そろそろ思い出してもいいんじゃないですか、お兄さん?」
首筋でささやかれる声。
どこか聞き覚えのあるその声に意識が遠くなる。
『どこに行くんですか?』
『山のほうに行くなら気をつけたほうがいいですよ』
『この土地に不慣れならなおさらです』
『気をつけてください』
『私は警告しましたからね』
『お兄さんはあの人と仲いいんですか?』
『どうなんですか? 仲いいんですか?』
『随分楽しそうに話してたみたいでしたけど』
『困るんですよね』
『あまり余計なことを吹き込まれると』
『お兄さんには関係のないことですよ』
『あまり気になさらないことです』
『だって……どうせ忘れてしまうのですから』
『――――ねえ、お兄さん』
そうだ……。
確かに聞いたことがある。でも、どこで……。
『――――――先輩、楽しい話をしましょう?』
いくつもの声が記憶の奥で呼びかける。
頭が割れるように痛む。
――――先輩?
誰かが僕を呼ぶ。
僕は必死になって、その名前を思い出そうともがく。
けれど、どうしても名前が出てこなくて……、
「ぐっ、駄目だ。やっぱり思い出せない……」
苦しむ僕を後輩は冷めた視線で見据えていたが、
「……そうですか。残念です、今度こそ上手くいくと思ったんですけど」
彼女はゆっくりと立ち上がると、僕に背を向けた。
「ま、待ってくれ……」
僕は無意識のうちに彼女を呼び止めていた。
彼女が立ち止まり振り返る。
「どうしたんですか、先輩?」
「きみは……」
喉の奥に引っかかった言葉を絞り出す。
「きみは何者なんだ」
「思い出せない先輩に言ってもしょうがありませんよ」
彼女は寂しげに笑うと、そのまま歩き出した。
僕は無我夢中で彼女の背中を追いかけようとした。
「待ってくれ!」
腕を伸ばし、彼女の手を摑もうとする。
だが、僕の手は何もない空間を掻いただけだった。
「くっ、何がどうなってるんだ……!」
僕は電車の真ん中で膝をついた。
窓の外は変わらず暗黒に閉ざされている。
そのとき。
「――――――にいさま」
僕の目の前に突然、妹が現れた。
妹はいつもの赤い着物姿で僕を見下ろしている。
「なんで、お前……」
「帰りが遅いと思って来てみれば、こんなところで油を売っていたのですね」
妹はつまらなそうに告げる。
電車は単調に揺れ続けている。
「まったく。最近は真面目に怖い話を書いていると思っていたのに、にいさまったら」
「お前はいったい何を言っているんだ……?」
「あんな神様モドキなんかに
「何の……、話を……」
「まあいいです。とにかく、こんなところに長居は無用です」
妹は屈んで、僕に手を差し伸べる。
僕が妹の手を取り立ち上がると、妹は僕の体を自分のほうへぐいっと引き寄せた。
「さあ、にいさま」
妹が僕の耳元でささやく。
「――――私と、怖い話をしましょう」
―― 虚妹怪談 第八夜 ――
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