もうどうでもいいのですよ、にいさま⑧
「――――――その日以来、男がその旅館を訪れることはなかったそうです」
妹はようやく語り終えると、ゆっくりとまわりを見回した。
つられて僕も視線を動かす。
静かだった。耳が痛くなるほどの静寂。僕と妹の息遣い、そしてわずかな木々のざわめきだけが響く。あれほど騒がしかったはずの虫の音やカエルの声までもが、いまは嘘のように鳴り止んでいた。夜のキャンプ場は深い闇に包まれていた。
そして、妹の話に聞き入っていて気づかなかったが、さっきまで隣にいたと思った両親はいつのまにか姿がなく、どうやら二人とも先にテントに戻ってしまったようだった。
妹の声以外、何も聞こえない。
妹の姿以外、何も見えない。
闇がすべてを吸い込んでゆく。
まばゆいはずの満天の星空も、夜闇を穿つ月の光も、いまは遙か遠くに見える。
僕と妹の二人だけが、誰からも知られず、冷たい地の底に追いやられてしまったような……そんな感慨に浸る。
「――――ねえ、にいさま」
妹が僕の袖を引っ張った。
人形のように美しい顔が、僕の目と鼻のすぐ近くにあった。
「な、なんだ?」
「にいさまは、私が妹としてここにいることに何の疑問も感じないのでしょうか?」
「え……? それは、どういう……?」
僕が問い返すが、妹は答えなかった。
ただ黙って僕を見つめているだけだ。
そして、返答の代わりに重ねて訊ねてくる。
「にいさまは自分の過去の思い出の中に〝妹〟の私が紛れ込んでいることに違和感はないのかと、そう訊いているのです」
「……何を、言ってるんだ」
「言葉通りの意味ですよ。にいさまが子供の頃に家族でキャンプ場に行ったのは事実なのでしょう。ですが、そのときお母様とお父様の他に家族がいましたか? 夜に百物語などしましたか? そのためにわざわざ蝋燭を百本も用意したでしょうか? にいさまには――――本当にそんな記憶があるのですか?」
「それは……」
僕は口ごもってしまった。
そのことを考えなかったわけではない。
ただ、それを考えるのはよくないことのような気がして、あえて思考から排除していたのだ。
「さすがに途中で気づくかと思ったのですが……ふふっ、にいさまは鈍い人ですね」
何も言えなかった。
僕は妹の言葉を否定できなかった。
どうしていままでそのことを気にしなかったのか、自分でもよく分からない。
何かがおかしいと、ずっと思ってはいた。
その何かが具体的に何なのかは分からなかったが、漠然と何かが違うと感じていた。
その一方で、その何かがいったい何であるのかを深く考えることはしなかった。
なぜか。
考えてしまえば、きっと認めてしまうことになるからだ。
そう、本当に怖いものが何だったのかを――――。
それが怖かったから……怖いと分かっていたから、無意識のうちに目を背けていたのだ。
「お前は……誰なんだ?」
僕はおそるおそる問いかけた。
すると、妹は少し物悲しげに目を伏せ、
「私が誰かなんて、そんなことどうでもよろしいではないですか」
かすれそうな声で、そんなことを言う。
「どうでもよくなんかないよ。だって、僕はお前の名前さえ知らないんだぞ」
「どうでもいいんですよ。そんなことは――もうどうでもいいのですよ、にいさま」
「だからどうして」
「だってにいさま――にいさまこそ、ご自分の名前もご存知ないではありませんか」
……え。
僕の……名前……?
僕の……僕の、名前は…………、
「は、ははっ。な、なに言ってんだよ。自分の名前が分からないなんて……そ、そんなこと……、あるわけ、ないだろ……」
と言いながらも、僕は背筋をつたっていく冷や汗を止めることが出来なかった。
「もっと言うと、にいさまがいまいるここが、夢か現実かどうかも、もうどうでもいいことなのです」
「……どういう、ことだ?」
「にいさま――にいさまはいま、思い出の中にいるのです」
思い出。
妹との思い出。
母さんがいて、父さんがいて、僕がいて、そして――妹がいる。
家族で過ごした思い出。
みんなでキャンプに行って、花火をして、いろんな話をして……。
そう、子供の頃から、ずっと一緒に……。
いや、そんなはずはない。
だって、僕と妹は最近出会ったばかり。わずか数か月前、三月の終わりに引っ越してきた先で初めて出会ったのだ。
だから、こんな思い出があるはずがないのだ。
じゃあこの思い出はいったい。
それに、自分の名前を覚えていないなんて、そんなこと……。
記憶も名前もないというなら――、僕は……いったい誰なんだ……?
待て待て。落ち着け。落ち着いてよく思い出すんだ。
子供の頃に家族でキャンプ場に行ったのは間違いない。それでそのキャンプ場で両親と妹が殺されて……いや、それはさっき聞いた怪談の話だ。そうでなくて、廃墟の旅館に迷い込んでみんなで百物語を……違う、そうじゃない。そうじゃなくて、妹を探して肝試しに行ったお屋敷で……ああ、これも違う!
……でも、みんなで肝試しには行った気がするな……それもかなり最近。
そうだ。みんなで肝試しに行って、それで友人の一人が死んで……ああ、そうだった。肝試しに行って友人が死んだんだ。その後、両親が死んで、引きこもって、僕は一人で引っ越すことになって……え、なら、妹を探しに行ったのも本当のことだったのか?
でも、僕に妹はいないはずで……。
そうでなくて、父親が再婚して後から妹が出来たんだったっけ……いやいや、それはいつか読んだラノベの原稿の話だ。そうでなく、妹はいたけど死んでしまって、命日の日に仏壇の前で……違う。それは夢の話だ。でなくて、妹は交通事故で死んでしまって、妹の幽霊が呼ぶから部活を引退することになって……それも違う。
違う!
違う違う違う違う!
僕の記憶はどれだ?
僕はいったい何者なんだ?
何も分からない。
何も覚えていない。
いまはただ、目の前に妹だけがいる。
「どうですにいさま、思い出があれば安心しますか? 一緒に過ごした時間があれば満足でしょうか? ねえ、にいさま?」
妹がささやきかける。
「にいさま、思い出がないことが怖いですか? 何も覚えていないことが恐ろしいですか? それなら――何も問題はありません」
「問題ないって……」
「にいさまは、私のことが怖いのでしょう? ですが、にいさまだって心の底ではこれ以上は何も知りたくないと――そう思っているのではないですか?」
「そんなこと……」
知るほうが怖いのか。
知らないほうが怖いのか。
「にいさまは何も知らなくていいのですよ。大丈夫です。妹の私がいつまでもにいさまと一緒にいますから」
――にいさま。
――――ねえ、にいさま。
――――――ほらほら、にいさまってば。
――――――――にいさま、私と怖い話をしましょう?
妹の声が耳の奥で反響する。
ぐわんぐわんと頭の中を掻き乱される。
息が詰まる。
周囲の闇にずるずると手足を絡め取られていくような圧迫感を覚える。
僕はいまどこにいるのか。
僕はいままで何と話していたのか。
もはや自分の目も耳も鼻も口も、過去の記憶さえも信じられなくなってくる。
何も信じられないのなら……どうせ何も分からないのなら、もういっそのことすべて手放してしまえば楽になれるのだろうか――――僕が自分の感覚を捨て去ろうとした、まさにその瞬間、
――――どんどんどんっ!
「えっ!?」
突然、大きな音がして静寂を打ち破った。
と同時に、パッと周囲の景色が変化したように思えた。
夢から覚めたような心地で顔を上げると――――――そこは、僕の部屋だった。
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