私はにいさまの妹ですよ⑩
「えっ⁉」
ルルルルルルルッ。ルルルルルルルッ。
鳴り響く電子音。
それは、音声通話の着信を知らせる音だ。
だが、その着信音もすぐに途切れる。
そして、何もしていないのに勝手に通話が開始された。
スマホの画面には、
――『後輩』と、表示されていた。
『もしもし先輩?』
『そっちはどうですか?』
『……あーあ』
『その感じだとダメそうですね』
『ダメですねえ』
『やっぱり先輩はダメダメですねえ』
『ほらだから』
『だから言ったじゃないですか』
『私と楽しい話をしましょうって』
『怖い話なんかするからそんなことになるんですよ』
『何が面白いんですか、怖い話なんて』
『だから先輩』
『ほら』
『私と楽しい話をしましょう?』
少し高めのアニメ声がスマホから響く。
知らない声だ。
しかし、相手は僕のことをよく知った感じで、親しげに話しかけてくる。
『せんぱーい』
『ねえー、聞いてます?』
『無視しないでくださいよー』
声はしつこく応答を求めてくる。
僕は通話を打ち切ろうと画面を押す。が、無駄だった。
通話は止まらず、声もこちらに話しかけ続けてくる。
やむを得ず僕は電話の声に答えた。
「も、もしもし……?」
『あーっ、やっと出てくれましたね先輩』
「お前は、誰だ……?」
『えー? いやですねえ、先輩のかわいい後輩ですよう。忘れちゃいました?』
「僕に後輩がいた記憶はないんだが……」
『もうっ、そんなつれないこと言わないでくださいよー』
「記憶にないものはない」
『またそんなこと言ってー』
「もっかい聞くが……お前は誰なんだ? この画面から流れてくる黒い水と何か関係があるのか?」
『あー……、そっちは大変なことになってるみたいですねー』
「はぐらかさないでくれ」
『はぐらかしてなんかいませんよ。だって私、関係ないですもん』
「関係ないのなら、なんでこんなタイミングよく電話をかけてくるんだよ」
『それは私なりに先輩を心配してですねえ……』
「知らん相手に心配される覚えはないんだが」
『えー? いいんですか先輩、またそんなこと言って?』
「何がだよ」
『だって先輩』
『ほら』
『ねえ』
『ねえ、先輩』
『先輩は私のこと知らない知らないって言いますけどね』
『ええ、いいですとも』
『先輩がそこまで言うなら私もそういうことにしてもいいです』
『でもですよ』
『そうだとしてもですよ』
『百歩譲って私が後輩かどうかは置いておくとしてもですよ』
『ねえ分かってます?』
『ねえねえ』
『先輩』
『先輩こそ』
『その部屋に、いったい誰と一緒にいるつもりなんですか?』
「えっ……」
僕はスマホを取り落とした。
ぼちゃっと音を立てて、スマホが黒い水面に浮く。
もはや部屋の中は僕の膝下まで黒い水に沈みつつあった。パソコンとスマホの異常に気を取られていたが、そういえば妹はどうしたのだろうか。この黒い水の中で無事だろうか。
……いや待て。
どうして僕は通話中、妹のことを気にしていなかった――気にせずにいられたんだ。
妹なのに。
家族なのに。
こんな異常事態だからこそ、まっさきに心配するべき相手じゃないのか。
それなのに、どうして……。
「いいんですよ、にいさま。にいさまは私の心配なんてしなくても」
すぐ耳元で、妹の声がした。
はっとして振り返るが、妹の姿はどこにも見えない。
「ふふっ。にいさま、そんな顔をしないでください。私は大丈夫ですから」
「で、でも……」
僕は狼狽を隠すことが出来なかった。
一方の妹は至って落ち着いた声で僕にささやく。
「ねえ、にいさま――怖い話をしましょう」
「え……、何?」
「怖い話ですよ。私と怖い話をするんです」
「何言ってるんだ。どう考えてもそんなことしてる場合じゃないだろ!」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!」
などと言い合っているうちに、黒い水はどんどん嵩を増していき、あっという間に僕は首まで浸かってしまう。水はどっぷりと重く澱んでいて、もう手足を動かすこともままならない。
――ぞぞぞぞ、ぞわわ、ぞわぞわわっ。
――――ぞろろろ、ぞぞ――――ぞぞろぞろろっ。
――――――ぞぞぞっぞぞ――ぞぞっぞぞぞぞぞ。
――――――――ぞぞぞぞぞぞぞぞぞっぞぞぞぞぞぞぞ。
それでも何とか抜け出そうともがいていると、水面を漂っていたスマホが僕の顔の前まで流れてきた。まだ通話中になっていたスマホからは高いアニメ声が話しかけてくる。
『先輩? どうです私と楽しい話をしてくれる気になりましたか?』
「お前、まだそ、そんなこと……」
『いいじゃないですかあ。楽しい話をしましょう? ねえ?』
「いいえ。にいさまは私と怖い話をするのです。ねえ、にいさま?」
『先輩? 私とお話しするんですよね?』
「いえ、私とです」
『先輩?』
「にいさま?」
僕は二つの声を聞きながら、ずぶずぶと黒い水の中に沈んでいく。
視界が黒く染まっていく。
『先輩、楽しい話をしましょう?』
「にいさま、怖い話をしましょう?」
ねえ。
ほら、私と。
そして、僕の意識は黒い水底に溶けていく。
―― 虚妹怪談 第七夜 ――
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