やっと思い出してくれましたね、にいさま⑨
先輩の話はあまりに荒唐無稽で、すぐに飲み込めるものではなかった。
しかし、実際に正体不明の暗黒物質で染まった原稿と、狂信的とも思える先輩の語りを前にしてしまうと、つい信じたくなってしまう自分がいるのもまた事実だった。
それに。
それに――僕は知っている。
この物語のことを。
この物語の続きを。
紙の上では黒一色に染まってしまっているこの物語の本編が、この先どういうふうに始まって、どういう経路をたどり、どういう結末を迎えるのかを。
そして、先輩が今回書こうとした物語が、この世界に遍在する別の物語の、ほんの一部分の一形態に過ぎないのだということも……。
先輩はその厖大な物語の一端を拾い上げようとした。
だから、僕も。
僕も、妹のために――……。
『――――にいさま』
声がした――――ような気がした。
「――え?」
何だって?
僕はいま何を考えていた?
物語の続きを知っている?
にいさま? 妹のために? いったい何の話だ?
それにいまの声は何だ? どこから聞こえた?
恐怖を覚えた僕は、慌てて周囲を見渡した。
当然、そこには何もいない。
放課後の文芸部室。長机。本棚。汚れの目立ち始めた壁。
窓の向こう側からは、オレンジ色の夕陽が差し込み始めていた。
いつもの風景。いつもの部室。
それなのに、その隙間からいまにも異質な何かが這い出てくるような予感がある。
黒くてずるずると渦を巻く、長い獣のような何かが出てきてしまう。
そんな、おぞましい予感が。
無様に慌てた僕を見て、先輩が
「おめでとう。その様子だと、どうやらきみも気づいたようだね」
「え……先輩? 何を、言ってるんですか……?」
「何ってさっきも言っただろう? 事態はすでに私の原稿だけの問題じゃ済まなくなっているんだよ」
「だから何を言って……」
「この物語は現実を侵食する。きみも呼ばれたんじゃないのかい、あの声に」
声。あの声。僕を呼ぶあの声。
――――――『にいさま』
「い、いや、いやいやいや。だとしても、どうして僕がそのおかしな現象の影響を受けなきゃいけないんですか? 僕はただ先輩が書いた原稿のほんの最初の部分を読んだだけで、本来何の関係もないじゃないですか」
「関係ないだって? それこそおかしな話だよ」
「おかしくないですよ!」
「おかしいさ」
だってきみ――と、そう言って先輩は口元を歪める。
「そもそもきみが言ったんじゃないか。妹が出てくる話があれば読ませてほしいと。私はきみの要求に従っただけだよ」
先輩のその言葉によって、僕の世界は砕かれた。
「僕が……」
「そうだ。きみが言ったんだ」
「妹が出てくる話を読ませてくれ、と?」
「そうだよ。だから私は書いたんだ。ある日突然妹が出来るラブコメをね」
「ある日突然、妹が出来る……」
僕が言った?
ああ、そうか――僕が言ったんだ。
僕は自分の行動を振り返る。
急速に脳内のタイムラインが逆行していく。
あれは、ほんの一週間ばかり前のことだっただろうか。
僕は妹についての物語を求めていた。
――どうして?
妹のためだ。
――妹のため?
そうだ。たった一人の妹のためだ。
妹は言った。なるべく多く怖い話を集めよ、と。
では、僕にとっての怖い話とは?
僕にとっての恐怖とは何なのか?
それは。
それはもちろん――――妹だ。
僕は妹が怖い。
妹が出てくる話が怖い。
だから先輩にも、何でもいいから妹が出てくるような物語はないかと言った。
そうして先輩が見せてくれたものが、いま手元にある――この黒い原稿だったのだ。いくら先輩が速筆とは言え、あまりにすぐ要求通りの作品が出てきたものだから、お願いしたこちらが驚いたくらいだった。
すべては、僕が望んだことだった。
なのに。
それなのに、僕は。
『――にいさま』
声。
声。
妹の声。
それはあまりに自然に。
あまりに当たり前に。
僕の耳に届いていた。
絡め取られる。
僕の意識も。
記憶も。
思い出も。
なかったことにしたかった過去も。
せっかく忘れようとしていたのに。
せっかく忘れかけていたというのに。
何もかも黒く染まってしまう。
この原稿用紙のように。
真っ黒に。
――ぞぞぞぞ、ぞわわ、ぞわぞわわっ。
――――ぞろろろ、ぞぞ――――ぞぞろぞろろろろろっ。
――――――ぞぞぞっぞぞぞぞ――ぞぞぞっぞぞぞぞぞ。
――――――――ぞぞぞぞぞぞぞぞっぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。
――――――――――ぞぞぞぞぞ―――ぞぞぞぞぞぞぞぞ。
――――――――――――――ぞぞぞぞぞぞぞ――――ぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。
そうだ。
どうせ逃れることなど出来ないのだ。
だって。
だって待っているじゃないか。
僕には。
僕の妹が。
ほら、いまも僕の後ろで――、
「――そうですよ。やっと思い出してくれましたね、にいさま」
―― 虚妹怪談 第五夜 ――
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