やっと思い出してくれましたね、にいさま⑦
「――先輩。でも、待ってくださいよ」
「うん? 何だい?」
「文字がバグっていったってことですけど、ここにある原稿は、どう考えてもそんな文字化けがどうこうの範疇を超えていませんか?」
先輩は言った。
テキスト部分が文字化けしたように上手く表示されなくなってしまう――と。
しかし、先輩が見せてくれた原稿の束は謎の黒い塗料のようなもので紙全体が真っ黒に染められていた。まるで墨汁か何かをぶちまけたように物理的に紙が黒く染まっているのだ。とても文字化けだけで説明できるものではない。
「そこに気づくとはさすが私の弟子」
「別に弟子ではないですが……」
先輩はハハッと笑う。
本気なのかふざけているのか分からない。
「だが、打ち直しただけでなくて手書きで書いてみたとも言っただろう? 原稿が黒く染まるというのは、入力して印字された文字がぐちゃぐちゃになるだけの状態を指して言っているのじゃない。本当に何枚もの原稿が勝手に真っ黒に染まっていってしまうんだ」
「原稿が勝手に黒く染まる……」
僕は机に投げ出された黒い原稿を茫然と見つめた。
「どれだけ書いても作品が完成しない。この苦悩がきみに分かるかい?」
「い、いえ……」
「書いても書いても作品が出来上がらない! プロットもキャラクターも台詞もモノローグも細部の心理描写に至るまですべて頭の中では緻密に完璧に完成しているというのに! それを読めるものとして表すことだけが、どうしても出来ない!」
先輩は、身振り手振りを交えて熱っぽく語った。
「ああ、分かってる、分かっているさ! つまりこれは――これは、私の小説じゃない。私が書くべき物語じゃないってことなんだ」
「書くべき物語じゃない?」
僕は聞き返した。
「だって、そういうことだろう? この物語は確かにこの世界に存在する。だけど、その作者は私じゃない。繰り返し繰り返し同じ文章を書き直し続けて、私はようやくそのことに気がついたんだ。私は――私という個人は、この物語にとって単なる出力された媒体の一つに過ぎないんだって」
「媒体? 先輩が、ですか?」
だんだんと先輩の語りは支離滅裂なものになりつつあった。
常識からも論理からも外れたその内容は、普段の先輩の冗談めかした話ぶりとも何かが決定的に乖離しているように思えた。
この人はいったい何の話をしているんだ?
僕の前にいるこの人は、本当にいつもの先輩なのだろうか?
そういう疑念が、僕の中で頭をもたげ始めていた――。
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