やっと思い出してくれましたね、にいさま⑤
「……えっ! どうしたんですか、これ」
「見ての通りだよ」
唖然とする僕を前にして、先輩はほらねというふうに肩をすくめる。
「いや、見ても分かりませんよ。何があったら原稿がこんなに激しく汚れるんですか。何かインクかペンキ的な液体をこぼしたとかですか?」
「私だって汚したくて汚したわけじゃないさ。仮にも自分の大切な原稿なんだから」
「大切にしている原稿がどうしてこうなるんですか?」
「大切にしていてもこうなってしまうんだよ」
埒が明かなかった。
「まあいいです。汚れてしまったものはしょうがないですよ。それなら、印刷する前の、原稿の元データのほうを見せてください。何ならメールで送ってもらっても……」
「それが、データのほうも駄目なんだ」
「駄目?」
というと?
「うん。この原稿に限って言うとね、何回文章を書き直しても、どれだけ機械を変えて打ち直しても、数時間後にはテキスト部分が文字化けしたように上手く表示されなくなってしまうんだ」
「文字化け、ですか?」
どういうことだろう。
「ああ。試しにそのまま印刷してみても無駄だった。今度は原稿の紙そのものがみるみる黒く染まっていって……それでこのザマってワケさ」
「そんなことが……」
僕は言葉を失った。
果たしてそんなことが現実に起こり得るのだろうか?
何らかの自然現象と機械の誤作動がたまたま重なった結果とかではないのか?
「信じられないだろう? だが、事実だ」
「ふざけているわけじゃ……ないんですよね」
「真面目な話だと言っただろう。この物語の続きは、決して書くことが出来ないんだ」
それだけじゃない、と先輩は話を続けた。
「原稿だけで済んでいるならまだよかったんだ。惜しいが、この物語をすっぱり諦めてしまえばいいだけのことだからね」
「……そんなふうに言うってことは、原稿の問題だけでは済まないことが起こったってことですよね?」
「その通り」
先輩はビシッと人差し指を立てた。
こういう芝居っぽい動作が挟まるので、先輩の話はいつも何かしら嘘っぽくなってしまうのだが……本人にどこまで自覚があるのかは不明だ。
動揺しながらも僕が先輩に対する態度を決めかねていると、先輩はいつになく真剣なトーンで、ふっと声色を低くした。
「……でも、ぶっちゃけ何が起こっているのかっていうだけなら、もうきみにも分かっているんじゃないのか?」
「えっ、何がですか?」
唐突な物言いに虚を衝かれて聞き返すと、彼女は大げさにため息をついた。
「そうか。まだ分からないか……」
「……?」
やれやれと肩をすくめる
先輩の意味深な台詞と言動からは、何の含意も読み取れない。もっとも先輩が僕に思わせぶりなことを言ってくるのは毎度のことではあるのだが(先輩のしゃべり方にはいつもやや中二病の気があった)。
「まあ、原稿が駄目になったからと言って、そう簡単に諦めきれないのも事実だよ」
「そういうものですか」
「そういうものさ」
先輩は一つの作品が終われば、即座に次の作品の執筆に取り掛かる。それゆえ、一度書き終わった作品に未練があるタイプではないものと思っていた。
だから、先輩の「諦めきれない」という言葉は正直意外でもあった。
それとも……今回はまた別の事情があるとでも言うのだろうか。
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