にいさまは何も心配する必要はありませんよ⑥





     §






 これは僕が通う高校での出来事――とある運動系の部活動で起こった話だ。

 僕が話を聞いたのは、その部活に所属する三年の男子生徒だった。

 その彼がまだ一年生だった頃の話だというから、いまから二年前のことだ。

 彼が部活の中でも特に親しくしていたある先輩が、あるとき折り入って相談があるというので、部活が終わった後、学校の外で落ち合うことになった。なんでも人前では大っぴらに相談しにくい内容だということだった。


「どうしたんですか先輩、わざわざ呼び出してまで相談って」

「それが、な……」


 その日の先輩は、普段の強面で大柄な見た目に似合わず気弱な様子だった。話し振りにも気迫がなく、肝心の相談の内容も一向に要領を得なかった。

 こちらが相槌を打ったりわざと明るく話しかけても、「ああ」とか「うん」とか言って話が途切れてしまう。それどころか、時々まるで関係ない方向を見つめていたり、かと思えば急にハッとして後ろを振り返ったりしている。


 それでもいつも世話になっているのだからと思い、根気強く話を聞いていると、要するに、「最近、幽霊に付きまとわれて困っている」というようなことを言いたいらしいことが、だんだんとだが分かってきた。


「――幽霊、ですか?」


 何を言っているのだろうこの人は。

 正直、そう思ったという。


「ああ。それで、その幽霊さ……たぶん俺の妹じゃないかと思うんだ」

「えっ? 先輩、妹さんなんかいましたっけ?」

「だから幽霊だって言ってるだろ。部活では言ってなかったけど……俺、数年前に死んだ妹がいてさ」

「あ、そうだったんですね……。すいません、無神経なことを言って」


 もとより軽くはなかった空気が、ますます重くなった感じがした。






「いや、それ自体は気にしてないし、まあいいんだよ。妹が死んだのも、もう何年も前のことだしな」

「そ、そうなんですか……」

「ああ。で、妹が死んだのは交通事故が原因だったんだけど……いま俺に付きまとっているのもその妹だと思うんだよ」


 先輩は深刻そうな表情で言った。


「失礼ですけど、その、幽霊に付きまとわれているっていうのは、つまりどういうことなんですか。イマイチ想像できないんですけど……」

「ああ、そうだな。そうだよな……」


 そして先輩は、ぽつぽつと断片的にではあるが、自身の体験を話し始めた。

 ここからは、その先輩の話をなるべく伝わりやすいように組み立て直したものになる。


 ――最初は、なんとなく視線を感じる程度のことだった。

 朝起きたとき。身支度をしているとき。道を歩いているとき。学校で友人と話しているとき。授業中に窓の外が気になったとき。トイレに入るとき。放課後の昇降口で雑踏を振り返ったとき。更衣室で着替えているとき。家で食卓に着いているとき。風呂に入っているとき。自分の部屋で勉強しているとき……。


 日常生活のあらゆる場面で、その感覚は突き刺さってきた。

 ぼんやりとした、しかし確固とした視線。そして、何者かの気配。

 部活の練習中にも、グラウンドの隅に人影のようなものを見ることがあった。


 ――誰かに見られている。






 そして、視線を感じる回数が増えるにつれ、何故かその「誰か」が「数年前に死んだ妹」だと思えてならなくなってきた。

 感じるのはあくまで一瞬の視線や曖昧な人影だけで、視線の主の姿をはっきりと見ることはなかった。だから、その正体が幽霊なのか、本当に妹なのかどうかも確かなことは言えない。


 しかし、妹の存在を意識するようになって、かつて妹と過ごした日々の記憶が少しずつよみがえってくるようになった。

 生きていた頃の妹の声、表情、容姿、仕草、ちょっとした癖、一緒に行ったショッピングモールや遊園地、お菓子を取り合って喧嘩になったこと、遊び疲れて居間で並んで寝たこと。そして、最期の日に交わした会話……。


 そういうことがじわじわと思い出されてきたのである。

 ついにはいま自分が感じているのが恐怖なのか愛情なのか、不気味さなのか懐かしさなのかも分からなくなり、すべての感情がぐちゃぐちゃになってきてしまった。


「ここ二、三日はさあ――呼ぶんだよ」

「呼ぶ?」

「妹が俺を呼ぶんだよ、耳元で、……って」

「はあ。にいさま、とはまた古風な言い方ですね。生きていたときの妹さんからもそういうふうに呼ばれていたんですか?」


 それは先輩の事情を理解しようとしたつもりで、話の流れで自然と口を突いて出た質問だった。

 しかし、その問いを境に、先輩の態度はがらりと豹変してしまった。


「…………生きていたときのことなんかどうでもいいだろ」

「えっ?」






 見ると、先程まで何かに脅えるように弱々しくなっていた先輩が、キッと恨めしそうにこちらを睨んでいた。


「生きていたときのことなんかどうでもいいっつってんだよ!」

「でっ、ですけど」

「だからよ、生きていたときのことなんかどうだっていいんだよ! 昔のことなんか確かめようがないし、もう分からないだろ! 人の記憶なんて当てにならないんだよ! 俺はいままさに、ここにいる妹の話をしてるんだよ! ほら、いまも呼んでるの聞こえないのか? にいさまにいさまってよぉ、お前は可哀そうだと思わないのか? 妹はあんなに気づいてほしいって、ずっとこっちを見てるってのに!」

「お、落ち着いてくださいよ、先輩」

「お前も妹のことを無視するのか? 家の奴らみたいにそんなもんいないって言うのか? なんなんだよ、どうすりゃいいんだよ。俺は妹に何もしてやれないのかよ……」


 先輩はその場に泣き崩れてしまった。

 体育会系の大男が嗚咽を漏らして突っ伏すさまを前にしては、話の内容以上に困惑せざるを得なかった。


「分かりました。分かりましたよ、先輩。僕が悪かったですって。だからいまは落ち着いてください。ほら、今日はもう遅いですし帰りましょう、ね」


 結局、その日の相談はそれで終わった。

 しかし、それ以降、先輩は部活でも普段の学校生活でも上の空になっていることが多くなり、そのうち部活自体に来なくなってしまった。かろうじて授業には出ていたらしいが、以前より口数も減り、また学校が終わるとすぐに帰ってしまうために、先輩が言っていた幽霊の話が、その後どうなったのかを知る人間はいなかった。


 さすがに部員や友人たちが心配して、何度か家まで様子を見に行ったこともあったが、応対してくれた家族曰く、先輩は最近は家にもあまり帰っていないらしく、朝に登校して以降はろくに連絡も寄越さないために、先輩が家の外のどこで何をしているのかは家族にも分からないということだった。

 やがて先輩は学校にも来ることが少なくなっていったが、教室にもほとんど姿を見せないまま出席日数ギリギリの状態で卒業し、その後の消息は不明だという。







「――でもおかしいんだよな」


 先輩の抜けたポジションを引き継いで、いまでは部活のエースにまでなったというその男子生徒は、話の最後に半ばぼやくように言った。


「いままでも充分おかしかったですけど」

「そうじゃねえよ。ほら、その幽霊に付きまとわれていたって先輩なんだけどさ――そもそも、その先輩にはじめから妹なんていなかったんだよ」

「へっ?」

「だから、数年前に妹が事故死したって話が嘘だったってこと」

「……どういうことです?」

「家族にも確かめたんで、その点は間違いないよ。家族も不思議に思ってたらしいよ、息子が突然、自分には妹がいたって言い出すんだから」


 では、彼が苛まれていた幽霊というのはいったい……。


「そういうワケだからまあ、幽霊に付きまとわれていたっていう話も、どこまで本当だったのか分からないんだよね」

「それを言ってしまっては……」

「その程度の話だよ、これは」


 だからきみもあまり深入りしないほうがいいよ――。

 彼はこちらをじっと見つめながら、念を押すようにそう言った。






     §








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