待っていましたよ、にいさま⑫



 僕は牢獄に囚われたような無力感に襲われていた。

 どうすればいい。僕はどうすればここから出られるのだろうか。

 僕には何の考えも浮かばなかった。

 そのとき――。


「……ねえ、にいさま」


 少女がぽつりと、僕に語りかけた。


「確かに、いまこの家にはにいさまと私しかいません」






 この家には僕と少女しかいない。

 正体不明の妖しげな少女と古い屋敷に二人きり。


 ――怖い。


 誰もいないこの家で、僕はこれからどうなってしまうのだろうか。

 想像すると怖くて仕方がない。


 しかし、この少女はどうしていまさらそんなことを言うのだろう。

 僕を追い詰めて何がしたいのだろう。

 これ以上、僕の精神を削り取ってどうしたいと言うのだろう。

 そう思っていたのだが――。


「怖いのは分かります。でも、よく考えてみてください」

「な、なにを考えるって言うんだ……」

「にいさま、この家にはにいさまと私しかいません。それは事実です。ですが――言ってみれば

「それだけって……」


 それだけ。

 それだけだって?


 ――そうだよ。 

 ――――たかが親が死んだだけ。

 ――――――


「ぐっ……」


 動悸がひどい。

 心臓を真綿で締めつけられているかのようだ。

 こんなに苦しいのは、あの黒い影のせいだ。

 あの黒い何かが、僕を……。



「にいさま? にいさまは私のことが怖いとおっしゃいましたが、正直、私にはどうしてにいさまがそこまで私を怖がるのか分かりません」

「どうしても何も……」

「ですがにいさま。私にはここでにいさまをどうにかしてしまおうなどという気はこれっぽちもないのですよ?」

「……そうなのか?」

「そうですよ」


 言われてみれば、この家で少女と二人きりの状況になってもう一時間近くが経つ。

 しかし、これまで少女が僕を拘束しようとしたり、あるいは明らさまな敵意を向けるようなことは一度もなかった。

 物音ひとつしない無人の屋敷。

 そこに迷い込んできた僕。

 僕はこの土地のことも、この屋敷のことも何も知らない。

 少女が僕に危害を加えようと思えば、いくらでも出来たはずだ。

 にもかかわらず、少女が僕に具体的に何かしたかと言えば――何もしていない。






「本当に……何もする気はないと?」

「ええ、本当に何も」


 少女はふうっと息を吐く。


「それに、ここは密室でもなければ、世間と隔絶しているわけでもありません。屋敷のある山を下りればすぐ町に出られますし、人も住んでいますし、たまにですけどもこの家に出入りされる方々もいらっしゃるのですよ?」


 少女の言葉に僕はハッとした。

 ……そうだ。

 僕は今日、もと住んでいたところから一人で電車を乗り継ぎ、手紙に書かれていた住所だけを頼りに、ここまでやってきた。

 ここが外の世界と地続きであることは、僕が身をもって知っているではないか。

 この屋敷が建っているのは、何の変哲もない山間やまあいの田舎町だ。

 僕は別に、神隠しに遭ったわけでもなければ、誰かに強制的にここへ連れ去られたわけでもない。

 僕は自分自身で選択してこの家に来たのだった。


「にいさま。ようやくたどり着いた家に誰もいなくて、心細くなるのは分かります。けど、にいさまもこの家から町の学校に通うつもりでお引っ越されてきたのですよね? 学校が始まってそこで新しいお友達でも出来れば、いま抱いている恐怖や不安も少しは和らぐのではないかと思いますよ?」






 少女の言う通りだった。

 何のために僕は遠路はるばるここまで来たのだったか。

 失意に暮れていた日々から心機一転して、新しい生活を始めるためではなかったか。

 だいたい、移り住んだ先の家に誰が住んでいるかなんて、本来は関係がなかったはずだ。

 むしろ余計な人間関係に煩わされる心配がない分、少女以外に人がいないこの屋敷は僕にとって都合がよいとさえ言えるかもしれない。


「私と一緒に暮らしましょう、にいさま」

「一緒に?」

「ええ。ここはにいさまからすれば未知の世界です。知らない人。知らない家。知らない町。恐怖を感じることもあると思います。不安に駆られることもあると思います。ですが――にいさまには私がいます。


 少女は念を押すように、そう言い添えた。


「いや、しかし妹って……」

「そうです。妹です」


 少女が言う。


「にいさまの恐怖も、不安も、すべて妹のこの私が受け止めてみせます」


 僕は少女と見つめ合った。

 少女が何者なのかは分からない。怖いという気持ちも完全に消えたわけじゃない。

 でも、ここでなら――。

 僕も逃げずにやり直すことが出来るかもしれない。


「それでも、まだ怖いというのであれば――」


 ふふっと、少女が笑う。





「――





 そして。

 妹の言葉に導かれ、僕は今日も彼岸と此岸の境界をさまよう。



 僕と同じ家に住んでいる美しい妹。


 この世のものとは思えない美貌を持つ彼女は、


 もしかすると本当に、


 この世のものではないのかもしれない。



 しかし。

 

 いまの僕にはそんなことは――――もうどうでもよいことのように思えた。










   

            ―― 虚妹怪談 第二夜 ――








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