にいさま、怖い話をしましょう④



 僕は頭を抱えた。

 もう夜も遅いというのに、どうしてこの妹はこんなに元気なのか。

 妹は黙っていれば清楚でクールな着物美人なのだが、ひとたび口を開くと二言目といわず一言目には怖い話を求めてくる生粋の怪談フリークなのである。

 しかも怖い話を求める相手はだいたい兄である僕に限られている。


「とにかく、毎度急に怖い話と言われたって具体的に思い浮かぶものじゃないよ」

「具体的な例があればよいのですか?」

「え。ま、まあ……」

「なるほど、わかりました。フフフッ」


 そう答えた妹の顔は、部屋に入ってきたときよりも高揚しているようだった。

 しまった。

 何か受け答えを間違えたような気がする。


「問題ありませんよ、にいさま。私にすべてお任せください」


 それから妹はほんの少し考えるような仕草をしたが、数十秒と経たずに何か思いついたようで、


「そうですねえ。じゃあ、たとえば、こういう話はどうでしょう?」






     §






 男は細い山道を歩いていた。

 暑い夏の日のことだった。


 深い山だ。いろいろな樹木が、濃くぐしゃぐしゃに生い茂っている。空を見上げても枝葉が何重にも重なり合っていて、晴れているのか曇っているのかすらよく分からない。


 静かだった。登山口からここまでずっとまっすぐに歩いてきたが、他の登山者にはただの一人も出会っていない。さすがに少し不気味な感じがしてくる。

 まだまだ先は長い。明るいうちに山小屋までたどり着かなくては……。

 男が汗を拭い、ふっと顔を上げたその瞬間だった。

 樹木と樹木の間を、何かがよぎった。


 小さな人影。

 それは、まだ幼い子供のように思えた。

 子供?

 こんな山奥に?

 しかし、そんな疑念や恐怖はすぐに霧散した。

 それらを上回る、より強い別種の感情が男の中に渦巻いていたのだ。


 ――知っている。

 ――自分はあの子供のことを知っている。


 何故そう思ったのかは分からない。

 ただ鬱蒼とした山林の狭間に、懐かしい誰かの面影を感じた。


「お――――いっ!」


 思わず、叫んでいた。

 木立ちの向こう側で動く人影が、一瞬こちらを振り返ったように見えた。


「お――――いっ、お――――いっ!」


 男は繰り返し、懸命に叫んだ。

 すると、






『――――っ?』


 森の奥から応じる声が聞こえた。

 軽やかな、少女の声だった。

 何と言ったのかまでは分からなかった。

 だが、確かに聞こえた。

 あの声には、聞き覚えがある。


 ――


 そうだ。

 男は脇目も振らずに山道を駆けだした。


「お――――いっ、おお――――いっ!」


 道はますます険しくなる。

 男はいつしか登山道を外れ、けもの道へと分け入っていた。


『――……、――……っ』


 次第に人影との距離が縮まっていく。

 それにつれて、声も少しずつ聞き取れるようになってくる。


『――……きて、――……こっちに来て』


 ――いま行く、

 ――すぐにそっちに行くから。


『来て――……。こっちに来て――……』

『――やっと――……やっと会えた』

『――……ねえ』


 声が――妹の声が、森閑とした虚空に反響する。


「――――っ、――――っ!」


 男は時間を忘れ、一心不乱に山の中を進んだ。

 とっくに喉は枯れていて、体力も限界に近かった。

 もうすぐ日が沈む。

 これ以上踏み込むのは危険だと理解しつつも、妹の気配に導かれ、男の足はさらに山の奥へ奥へと向かっていった――――……。






     §





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