長野夏期講習コース②

 沈黙の中、廊下に出た一生は、先程喜んでしまったことに罪悪感を覚えていた。そして、なおも日比の後ろを追っている自分にも嫌気がさしていた。しかし、足を止める勇気もなかい。廊下の壁にかかった、草原の絵を通り過ぎた頃、何事もなかったかのように日比は陽気に話し出した。

「まじで、土倉探すの大変だった!まあ、しおりの部屋の割り振りを見ればよかっただけなんだけどさ。」

手に持っていたしおりにシワがよる。

「ところで、なんでまた後ろ、歩くわけ?」

「どうでもいいだろ。」

「どうでもよくないから、聞いてんだろ、答えろよ。」

強い口調にたじろいだ一生は、周りに誰もいないことを確認してから口を開いた。

「自信がないから正しいことをする。正しいことをしていれば、間違えないから。」

「じゃ、一人でいるのはなんでだ?」

「疲れんだよ。悪いか。」

ブスッとして答える一生は、こんな答えは、ずいぶん矛盾している、と薄々感じていた。

誰もいない休憩広場の机達による。窓際の一番端の席に陣取ると、日比は一生を手招いた。いつになく、真剣な顔で、身を乗り出す。

「俺ら、中途半端だから辛いんだよ。」

「だから、保身する。」

「皆キャラ被りくらいしてそうじゃね?」

「じゃあ、変わる必要なんてないじゃないか。」

日比が、…負けたわ。と言って天井を仰ぐ。それを見ながら、居心地が悪い一生は早く自室…に戻りたいと考えていた。先程あんなに晴れていた空は、今はどんよりと曇っている。窓際に沿って立っている木々の葉が黒ずんで見えた。

「職業調べとかの夏休みの宿題、もうした?」

気を取り直したように話を振ってくる。随分と足を伸ばして、地味にこちらの足を踏むのはやめてほしい。

「まだ。」

「土倉は将来なんになりたい?」

日比の足の下から、そっと足を引き抜くために下げていた視線を上げた。決めてない。と言おうとして、やめた。

「アーティストかなんか。」

「‥と、いうと。」

「世の中に、どれだけ将来アーティストを目指す人がいて、どれだけ才能を持っている人がいるか、想像つかない。俺なんかよりよっぽど腕がいい(?)人が何千といるはずだし、生計を立てられる自信もない。全く現実味がない話だ。」

初めて口にする不安だった。この甘い希望は、家族すら話したことがなかった。将来の夢も。日比なら素直に聞いてくれる気がした。

「だから、一旦全く興味なかった理系の仕事を考えてみた。けど、やっぱり俺は絵を描きたかった。どんなことがあっても、これは変わらない。」

椅子を引く音が響く。突然立ち上がった日比に思わず身を引いた。

「すごいよ!お前ならできるって。お前が悩んでるうちに、未来でお前を待ってるやつがいるかもしれないんだぜ?人を何人喜ばせたっていい!プロは何人いたっていいんだよ!!」

ーープロは何人いたっていい。思わず目を見張っていた。明るい期待、青臭い期待がが胸いっぱいに、はちきれんばかりに広がっている。いいな、俺はアーティストになりたい。深呼吸して、立ち上がった日比を見上げる。

「…なわけないだろ。」

「…だよな。」

プロは“プロ”と言われる並の力量を持っている。たしかにプロが複数いた方がいいが、そう簡単に“プロ”が増えてもらっては困る。先程の勢いは消え失せ、日比は萎んだ風船のように椅子に腰掛けた。

「けど、この希望はただの自己満足だとして、人に役立つ仕事が“楽しい”なら、俺はそっちを取るかな。」

肩をすくめると、じゃあ、どうするんだよ?というまともな指摘が返ってきた。

「俺はね、先生になるかも。俺はいまの気持ちがわかる大人になりたい。忘れたくないし、それで、本当に生徒に寄り添える人になれたら嬉しい。土倉はさ、先生のことどう思ってる?」

「正直、別の生物。言いすぎた。いうならば次元の違う存在。」

「むしろ悪くなってるだろ。…寄り添えるとか置いといて、せめて次元くらい同じになりたいな。」

目をキラキラさせて話す姿は、一生に真似はできないものだ。誰かの幸せを本気で願って仕事を探す、なんてこと一生にはできないから。もっとその話を聞きたい。

「で、どの科目の先生になるつもり?」

「そうだ、今日の予習、教えてくれ。土倉先生。」

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