復仇(四)

 殿様の御前に罷り越したのは、あの御前試合以来でございました。裃を付け、叔父に支えられながら登城し、大広間で平伏する私に、殿様はこう申されました。

──天晴であった。

 父は後傷一つなく、殿中ゆえつかにさえ手を掛けず、絶命するまで素手で応戦したそうです。端緒である口論も、居合わせた方々によれば、決して父から仕向けたことではなかった、と。

 結果、小椋の家には何のお咎めもなく家督相続が許され、伊藤家は閉門蟄居にて未だ御沙汰待ち。そうして、殿様は武門の倣いと、私に仇討をお命じになったのでございます。

 その瞬間、私はぽかんと顔を上げておりました。

 理解できずにおりました。何ゆえ橘三郎様と父が争ったのか、誰も教えてくれません。藩中で、橘三郎様と私のことを知らぬ者はおらにはずなのに。

 私はすっかり混乱しておりました。心得違いから生じた親不孝とあらば、父にも、橘三郎様にも申し訳が立ちませぬ。しかし、殿様の御前で、何がどうしたと尋ねることは適いません。私は床に手を突き、額を押し付けながら、ご意向にひたすら頷くほかございませんでした。

 すると、あれよという間に庭先が掃き清められ、縄打たれた男が引き出されたのでございます。茫茫と月代を伸ばし、汚れた着物は汗染みで斑となり、袴の裾は彼方此方が千切れておりました。寒空に裸足のまま、すくりと立った姿は伊藤兵庫様──橘三郎様でございます。私は驚愕のあまり息を止め、食い入るように、遠くのその姿を見つめておりました。

 見る果てもなく変わり果てたお姿です。しかし、確かに私の橘三郎様でございました。縄打たれながらもを高くして、前のめりにこちらを睨み付けております。食い縛った歯の間からは、獣のような唸り声が聞こえてくるようでございました。

 私はその視線に射竦められた小禽のごとく、身動き一つできません。叔父の手で引き起こされ、別間に連れて行かれると、白絹の小袖と袴に着替えされられました。父の大刀を佩き、汗止めの鉢巻を締め、叔父手ずから血に滑らぬようと草鞋を結ぶと、最後に私を見据え、こう言いました。

──おのが撒いた種だ。おのが手で刈れ。

 さらに連れて行かれたのは、先ほどの大広間の御前、清められ設られた庭先です。まるで見せ物のようでございました。座敷から廊下まで、登城した上士の方々が居並び、こちらを凝視しております。私は震える足を励ましながら、居丈高な〝仇〟の前に立ちました。

 伊藤橘三郎様は、代々藩の重役おとなを務めてきたお家の方ございます。髭を当たり、着物を変え、こざっぱりしたがゆえに、実に恐ろしいほど堂々とした立ち姿でございました。私を見るに、かつてのあたたかな光りはございません。世慣れぬ私にさえわかるほどの深い憎しみに怯み、足は地に縫いついたようでございました。

 事実はどうであろうと、これは私の仇討ちなどではございません。橘三郎様こそが、恨みを晴らす場なのでございます。何の恨みか、なぜそれほど憎まれねばならぬのか、私には皆目見当がつきません。ただ、藩中でも屈指の遣い手である橘三郎様の前で、私は猫に射すくめられた仔鼠のように、小刻みに震えるばかりでございました。

 その時でございます。

 庭の奥、木戸越しに小柄な女人の姿が垣間見えたのです。その場違いな姿に驚く私に、橘三郎様が振り返りました。

 なんと申せばよいのか。遠く、目鼻もはっきり見えぬ距離でありましたが、あれはおそらく橘三郎様の御新造、春様でございました。重役同士のお家柄ゆえ、お目溢しのお計らいがあったのでしょう。

 お二人は、ひたと見つめ合いました。瞬時に、私も城中の景色も消えてしまったようでした。春様は、わずかに頭を下げました。それに応えるように、橘三郎様は笑みを浮かべ、微かに頷かれたのです。

 その笑み。私にも覚えがあります。かつての日々、私だけへ向けられたものでした。橘三郎様と過ごした日々の営みが、四季の移ろいとともに浮かび、消えていきました。

 六郎殿、ご存知でしょうか。憎しみほど命を燃やすものはございません。笑み交わすお二人を見た瞬間、私は雷が落ちた草生水くそうずのように、この胸に消えぬ炎を宿しました。その炎は私の頭を芯から冷やし、明瞭な謐けさを呼び戻したのでございます。

 私の〝仇〟は逃亡の日々を経て、疲れ果てておりました。痩せ細り、手の先も震えているようでございます。

 一方、私も決して褒められたざまではございません。おのれを憐れむことに溺れ、鍛錬を怠っておりましたゆえ、刀の重みでよろめきそうなほどでございます。

 ならば、最初の一太刀で勝たねばなりません。橘三郎様から多くのことを学びました。橘三郎様の太刀筋を誰よりも見切っているのは、実はこの私自身でございます。

 やがて、春様は何方かに付き添われ姿を消しました。

 立会人が我らの間に立ち、口上を述べ始めます。

 殿様の御前です。怯懦な振る舞いはできません。訳のわからぬこととは申しながら、ここまで来れば俎上の鯉、一か八かの賭けでございます。

 さて、六郎殿。

 六郎殿は、運命というものを信じましょうや。天命と申した方がよいかもしれません。

 勝負を生き残ったのは、あろうことか私でした。

 、何が起こったのかわかりません。誰もが次の瞬間、私が地に斃れ、血塗れになることを期待しておりました。橘三郎様をお助けするには、それしかなかったのです。

 残念なことに、その時はまったく考え至りませんでした。差し迫った状況のなかで、目の前のを討たねばと、それのみで頭が一杯になっていたのでございます。

 血を噴いたのは、橘三郎様でございました。

 橘三郎様は上段に構え、満を辞して踏み込みました。そこで何を踏み抜いたか、蹌踉めいたのです。瞬間、私の目は橘三郎様の喉元を捉えました。捉えれば鍛錬した通り、無防備な喉元へ先鋒きっさきを深く沈めるのみでございました。





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