復仇(三)

 世が云うように、武家が武家たる所以は、痩せ我慢の矜持にございます。

 町方と異なり忠義が第一。それ故に幼少期よりおのれを律し、好きを好き、嫌を嫌とも申さず、人倫に恥じぬよう、それこそ定められた道を逸れぬよう生きて参るのでございます。

 それがあまりにも当たり前のことでございましたゆえ、微塵たりとも不思議と思わず、ひたすら精進して参りました。

 しかしながら、今ではこうも思うのでございます。

 あれは、出来ぬ所以の見栄ではなかったか、と。

 ひとの本性は卑怯、怯懦にございます。それが自然じねんのことなれば、名目を全うするためにはひたすら本性を隠し、虚勢を、見栄を張らねばなりませぬ。

 出来ぬものにはが肝要。狎れるためには、慣れねばなりませぬ。慣れて逸れぬよう、手を引き、褒美を与え、階を昇らせる。昇っていると思えば、疑いなど出て来ぬものでございましょう。


 あの夏が終わる頃、私は半ば幽鬼の如き様相となっておりました。橘三郎様恋しさと、恨めしさと、おのれの不甲斐なさ、意気地のなさにほとほと呆れておりました。父からは情けないと詰られ、母や姉達からは世間に顔が向けが出来ないと泣かれ、腹に刀鋒きっさきを当てる度胸もなく、むしろ橘三郎様に討たれるのであれば本望などと夢想して、私は一日中床の中から天井を見上げ、じくじくと爛れた目尻から涙を流し続けたのでございます。そうして、思い返すのは橘三郎様の手と、首筋を噛む甘さ、背なに重みを感じ、汗で滑りながら喘ぐ声、猛々しくこの身を満たし、世の果てまで弾け飛びそうな痛みと快楽と私の名を呼ぶ声。橘三郎様の唸り吠える声であったか。闇に堕ちるその一瞬の、なんと狂おしいことか。

 あろうことか、私は夜な夜な逢瀬を思い起こしておのれを慰め、声が漏れぬようにと夜具を噛みながら、いつ果てるとも知らぬ暗がりに堕ちていったのでございます。


 その闇に、一条の光が差したのは何時であったか、まるで憶えがございません。

 茜に染まった座敷でございました。長姉が私を揺り起こし、一大事ですと告げたのです。

──一大事が出来しゅったいしました。お父上様が討たれました。下手人は山へ逃れました。御城からお使者が参ります。さあ、お支度なさい。

 私は何のことか理解できずに、婚家から戻ったらしい長姉を見上げ、莫迦のようにその言葉を繰り返しました。

──誰が父を討ったというのですか。

 姉は一瞬言い淀み、意を決したように私を見据え、伊藤兵庫様です──そう言いました。


 それから、どれほどの騒ぎになったのか。当時の記憶は至極曖昧で、やがて父の遺骸が運び込まれ、その前で惚けたように座っていたことと、城中での委細を告げる叔父と、ああ、そうです。菊の香りが咽せ返るようでございました。殿様より葬儀の御許しがなかなか頂けず、西を向いて横たわる父の周りには、たくさんの菊が手向けられておりました。

 やがて御城から使者がお見えになり、幾度も父の刀疵を改めました。ようやくそれから十日ほどして、身内のみの葬儀と荼毘に付す御許しが下り、ようやく見送ることができたのでございます。

 そして。

 そして、それから四十九日を迎えるた冬のその日。下手人が捕らえられ、殿様の御前に引き据えられたと知らせが参りました。

 登城せよとの御定でございました。




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