復仇(二)

 まずは、恋の話をいたしましょう。これこそが、まことの昔話でございます。

 ああ、わかっておりますとも。我ながら、いまだ拘っているのかと呆れほどでございます。

 しかし、は私にとって、ただ一つのでございました。

 六郎殿にもございましょう。何方かを恋しいと、この方の為ならば、この身もこの命もすべて捧げて惜しゅうないと、そう思うたことはござりませぬか。

 私がそんな想いを持ったのは、この世でただひとり。貴方の姉上殿の夫、伊藤兵庫様でございました。

 あれは、私が数えで十二の春。兵庫様は十八でありました。兵庫様から──私にはきつ三郎様でございます──父の上役を通してお話しがあったのでございました。

 道場へ通う道すがら私をご覧になったとかで、橘三郎様の〝弟〟にならぬかと、そのようなお申し出でございました。

 当時は、ごくあたり前の倣いでございました。特に我が藩は武門の誉れ高く、殿様のお役に立てる立派な侍になれるよう、年長の〝兄〟が〝弟〟を導くのでございます。学問はもちろん、剣術、体術、社交術まで、それこそ手取り足取り教え、導くのです。

 その頃、私は少し晩生なところがあって、男兄弟がいないこともあり、橘三郎様のご厚情がただ嬉しく誇らしく、それこそ仔犬のように付いて回っておりました。

 伊藤橘三郎様は、目付役を務める上士のお家柄にございました。翻って我が家は、上士とは名ばかりの祐筆の端くれでございます。橘三郎様は文武両道、お顔立ちをも凛々しく、潔い振る舞いで同じ年頃の者たちのなかでも抜きん出たお方で、将来は藩政の重きを為すであろうと、周囲の期待も高い逸材でございました。

 その橘三郎様が、私を〝弟〟にしたいなどと、父より聞いた時は、天にも昇るような嬉しさと、おのれで務まるのかという不安で押し潰されそうでした。それを討ち払うように、橘三郎様は学問も、剣術も甘やかすことなくよく見てくださり、私は兄ができた嬉しさもあって、めきめきと腕を上げてまいりました。十五の秋には御前試合を勝ち抜いて、殿様よりご褒美を頂いたほどでございます。父をはじめ親類縁者一同、小椋の家はこれで安泰と、それはもう大層な喜びようでございました。

 さて、衆道については、父からそれとなく耳打ちされましたが、当時は何のことかよくわからず、きつ殿の仰せのままにせい、と申されたのを律儀に守りるばかりでございました。

 そのような幼い憧憬にとって、兄と契りを結ぶことは、当初は只々恐ろしいことでございました。はじめは橘三郎様の前で泣き出してしまい、苦笑いされたこともございます。しかし、一旦契りを結んでからは、幼い思慕は激しい恋情となりました。

 当初は、橘三郎様の変わりように驚き、身体を開かれた痛みに泣いておりました。橘三郎様は、寝込んだ私のもとにに幾度も足を運ばれ、謝りながら「其方が愛しい」などと言われるものですから、もう歯止めが効きませんでした。傷が癒えると、私はいつでも兄の求めに応じて袴を解き、耳元で睦言を囁かれ、責められ、慣らされていったのでございます。

 それを〝恋〟と思うていたのは、確かに子供の浅はかさにございました。それでもやはり、この後に及んでと思われるでしょうが、やはりただ一つの恋、この世の花であったと、今でもそう思うのでございます。


 そうして年月が過ぎ、十七となりました。伸ばし伸ばしになっていた元服の日取りも決まり、私は橘三郎様と最後の逢瀬を惜しんでおりました。

 幾度も情を交わし、それでも別れの時が近づいてまいりました。身支度を終えた橘三郎様は、未練がましく抱きついた私にこう申されたのです。

──秋に祝言を上げる。

 私は何を言われたのかわからず、怪訝な顔をしたのでしょう。橘三郎様は私の頬に手を添えて、もう一度繰り返しました。

──秋に祝言を上げる。

 橘三郎様は、藩中でも大身のご長子でございます。二十三歳で嫁取りなど、遅いくらいでございました。

 しかし当時の私は、元服が近づくことでおのれの人生が終わるように感じ、気が滅入るばかりでおりました。さらに橘三郎様のご婚儀を知り、もう二度と、本当に二度とこうして可愛がってもらうともないのだと思い知り、気がつくと橘三郎様の逞しい首に泣いて縋っておりました。

 どうか祝言などしないでくれ。前髪を落としても、このまま、今まで通り、いつまでもいつまでも可愛がって下され。橘三郎様がこの命よりも、何よりも大事だ。貴方がいなければ生きていけない──と。

 それは、決して口にしてはならぬ戯言でございました。

 衆道は、愛欲ではございません。

 侍の本分は、殿様に忠義を尽くすことのみにございます。その為の修練であり、その修練の為に橘三郎様は私の〝兄〟となったのでございました。

 それまで私を愛惜しげに見ていたが、瞬時に玉鋼のように重く、昏い色に変じました。

──凡愚なり。

 私は慌てて謝りました。心得違いをしたと縋りました。しかし橘三郎様は、二度と、二度と私へを向けることはございませんでした。城中でお会いしても、河原か路傍の小石でも見るように、素通りするばかりでございました。

 〝愛しい〟と幾度も囁き、私の口を吸われたのは何だったのか。肌を合わせ、魂と魂が溶け合うように感じたのは、思い違いだったのか。

 すぐに私と橘三郎様の仲違いは藩中でも姦しく、私は羞恥と後悔で塞ぎ込んだまま食事も喉を通らなくなりました。

 幾度か文を送ったり、父に頼んだりもしましたが、その後、橘三郎様から一切音沙汰はなく、やがて晴れ晴れとした蒼天の錦秋の候、美しい嫁御寮をお迎えになったのでございます。

 それが六郎殿の姉上様にございます。御新造が春様と知って、私の幼いは終わりました。




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