第11話

 あれから、空は学校を休んでいる。紫は教室のなかでぽっかりと空いたその席を見つめた。教室の後ろの方では、一部の男子が固まって空の話をしている。ときおり、耳をふさぎたくなるような汚い言葉が聞こえてくる。それに対して眉をひそめるクラスメイトも何人かいるが、直接本人を言いとがめたりたしなめたりする者はいない。

 数日後に迫った定期試験に向けて休み時間を費やしている紫の前の席に、だれかが座った。前の席の主かと思ったが、こちらへ半身を向けた彼の姿にすぐさまそうでないとわかる。

「筒井さん、空からなにか連絡あった?」

 黒田はいかにも彼が心配であるという顔で、そう切り出した。

「…… どうして私に聞くの」

「だって筒井さん、空と仲良いみたいだから」

「べつに仲良くはない」

 紫はあんたとは絶対に会話したくない、とでも言うように、というか、それが伝わりますようにと願いつつ、教科書から顔を上げずに言った。黒田は紫の返答に首をかしげ、それから「ああ」となにか察したような声を上げた。

「けんかしたって聞いたよ」

 紫は手にした鉛筆をへし折りたい気分だった。

「ほかの人には関係ないけどね」

 さっさとどこかへ消えてくれ、という気持ちを込めて言うとようやく伝わったのか、黒田はごめんと謝罪した。

「でも、あの……」

 黒田は数度、なにか言いかけてやめるのを繰り返してから、意を決したように口を開く。

「筒井さんの妹、翠ってさ、…… 好きな人とかいんのかな」

「…… 話す相手を間違ってる」

 恋愛の話をしたいなら紫は興味がないうえにもっとほかに適任者がいるし、妹のそんな話など詳しくはないのでそれもまた間違っている。紫は時計を一瞥すると、教科書類を持って席を立った。次の時間は数学で、数学は少人数での授業がされている。成績の良し悪しではなく、単に名簿順に分けられているだけなので、当然のように黒田もついてくる。黒田とは同じ教室だ。

「ごめん、でもどうしても聞きたくて」

「だから、私じゃ――」

「翠、俺と同じ人が好きなんじゃないかって……」

 内に押し込めるような小声で、突然放たれた言葉はしかし、紫の足を止めるには十分の効力を持っていた。

 つまり、どういうことだ?

 黒田とうちの妹―― 翠の好きな人が同じ、ということはつまり、どちらかが同性を好きだということにならないか。

「…… どういうこと?」

 軽い混乱状態に陥って問いかけると、返ってきた答えは思いがけないものだった。


 翠とけんかをして、今日で二日になる。定期試験も迫っているせいか、部活動も停止中で、翠だけじゃなくほとんどの生徒たちが授業を終えるとすぐに下校する。教室でしばらくクラスメイトたちと話していた朱音は、放課から数十分後に門を出た。

「あっ……」

 中学校の敷地を覆う石垣にもたれていた姿が、朱音が門から出てくるのを見つけると石垣が背を離した。

「―― た…… 田島さん、あの……」

「翠ならもうとっくに帰ったと思いますけど」

 朱音は自分に声をかけてきた人間が今度のけんかの原因だとわかると、素っ気なく言って通り過ぎようとした。

「君に用なんだ」

 来た。朱音は思わず足を止める。

「このまえ、玄関ではじめて見たときからその、いいなと思って――」

「迷惑です」

 彼に最後まで言わせることなく、朱音は言い切った。

「あたし、先輩と話したことないのになんでそんなこと思えるんですか? 同じクラスでもないし、あたしのことなにも知らないですよね。どうしてほとんどなにも知らない人に対してそんなこと思えるんですか? それって勘違いじゃないですか?」

 矢継ぎ早に言われて、黒田はあっけにとられていた。朱音はもう、ほとんど八つ当たりするように黒田に言葉をぶつけていた。

「あたしそういう、見た目しか見てない人って本当に無理だし、好きな人がいるのでどっちにしろ先輩とは付き合えません。翠も知ってますよ、あたしに付き合ってる人がいるのは……。もしかして聞いてないんですか?」

 本人の口からもたらされた情報に黒田の表情が変わって、朱音は今が好機とばかりに叩き込む。

「先輩と翠、最近よく話してるみたいって友達に聞いてたんですけど、知らないってことは先輩、翠に大して信頼されてないんですね」

 もうじゅうぶんだろう。朱音は「帰って勉強しないとまずいので、さようなら」と告げると、踵を返した。


 翠は放課から小一時間ほど経ってから、ようやく校門を出た。社会の問題集にある応用問題がどうしても解けなくて社会科の教師のところへ質問へ言っていたら、こんな時間になってしまった。

 門を出てすぐの石垣に知った影を見つけ、翠は足を止めた。

「…… あ、翠。どうしたの?」

「どうって……」

 先輩こそ、と翠は聞き返す。下校時間をとっくに過ぎているのに校門前でぼんやりしているわけを問えば、黒田は「フラれちゃって」と答えた。

「…… え?」

「付き合ってる人がいるんだって、言ってたよ。翠も知ってるって。…… でさ、俺に翠の話ちゃんと聞かないで先走っちゃったなと思ってさ」

 あいつ、と翠は内心で歯ぎしりした。けんかの腹いせに違いない。

「…… すみません。その」

「いや、わかってるよ。翠、俺が傷つかないように気をつかってくれたんだよな」

 黒田は翠を安心させるように笑ってみせた。が、彼の表情はどこか悲しげにも見える。黒田は「でもさ」と続ける。

「翠も言ってくれたらよかったなと思って……。ほら、ふたりみたいな、そういうのって絶対大変だろうし、俺、ふたりの力になりたいからさ」

「…………」

 バレているのか、という驚きと、彼の言葉に対する違和感。翠のなかに落ちてきたのはそんなものだった。

 絶対大変、なのか。

 黒田の気持ちが、嬉しくないわけじゃない。善意からくる言葉であるのもわかる。でも、自分たちの、自分の朱音への気持ちというものは、そんなふうに特別視されるものなんだろうか?

 黒田が親身になろうとしてくれているのが伝わってくるだけに、そういうの、という単語が、ひどく突き放されたものであるかのように翠は感じていた。


「ねえ、ちょっと」

 紫は自室の、廊下側でない、翠の部屋とつながっている方のふすまを開けるなりそう呼びかけた。

「廊下側から入ってきてよ」

「黒田くんに聞いたんだけど」

 翠の文句を無視して、紫は続ける。

「あんた、あの子のこと好きなの」

「…… だれ?」

 姉から普段は絶対にしない話を切り出され、翠は戸惑いがちに問いかける。

「いつも一緒にいる子。空の妹」

「ああ……」

 すぐに返ってきた答えに、翠はそんな声を出して後頭部をかいた。机の上で教科書を開いたまま、試験勉強に集中しているふりをする。

「そうだけど、それがなに?」

 紫の声の調子がいつもの雑談とはまるで違うことを感じながら、翠はつとめていつも通りに、なんでもないことを話すかのように答えた。

「…… 本気なの?」

 彼女らしくない。普段であれば、互いの事情に介入したりしないし、こんなふうに真剣な顔でなにかを話し合ったりはしない。いつもと違う姉に疑問を感じながらため息交じりにふりむくと、見たことのない、思いつめたような表情の姉がいた。

「簡単にほかのひとに気持ちが動いたりしないって意味なら、本気で付き合ってるつもりだけど」

 紫が黙った。電源でも落ちたように静かになってしまった姉をけげんそうに見つめながら、翠は立ち上がる。せっかく集中していたところに話しかけられてやる気がそがれたので、休憩でもはさむことにする。

「…… 本気で、言ってるの?」

「だからそうだって――」

「傷つくよ、それじゃあ」

 ふたたび同じことを問いかけてきた紫に少しだけいらついてふりかえると、彼女は言葉を重ねてきた。

「…… わかってるよ」

 ぽつりと言って、翠は部屋を出た。タンとふすまが閉じられる音がして、紫ははっと我に返った。

「あ……」

 数秒のタイムラグがあって、自分がなにをしたのかを知る。階段を下りていった妹の後を追おうと足を動かそうとするが、体がついてゆかない。

 だって、なにを言えばいい?

 傷つけるつもりはなかった?

 ほんとうはそんなこと思っていない?

 あんなことを言ってしまって反省している?

 どれもかえって妹を傷つけてしまう気がした。紫はとぼとぼと自分の机に戻ると、ため息を吐きつつ椅子に腰を下ろした。試験はもう明後日まで迫っている。空はあれから学校に来ていないが、勉強はちゃんとしているんだろうか。そもそも、テストを受けに来るつもりはあるんだろうか。ひょっとすると、もう学校に来るつもりはないのかも……。

 いやな考えが脳裏をよぎって、紫は後頭部をかきむしった。頭を抱え込むようにして少し考え込んだあと、ルーズリーフを取り出した。


「なんで? 佑人、桃香のこと好きなんじゃないの?」

 試験前ということで自習となった教室内は、ほんの少しだけ騒がしい。お互いに教え合ったり、問題を出し合ったりしている生徒がいるからだ。けれどなかには、勉強とはまったく関係のない話をする者も、若干名。

「好きじゃない…… ことは、ないけどさ」

 緋奈子よりもいくらか控えめな声で佑人が答える。佑人の机の上には一応教科書が開かれているが、緋奈子の机上では開かれてすらいない。

「だったらさあ、もう……」

 先ほどからなされているのは、どうも隣のクラスの女子、桃香に対する佑人の進退の話のようで、翠にはみじんも関係のない話なだけに耳に入るのが気に障る。無関係な自分が、こんな話を聞いていてもいいものだろうか。いや、あまり良くはないだろう。緋奈子は友人のことを想うと熱が入るのか、どんどん声が大きくなってしまっている。

「緋奈子。声、大きい」

 聞こえてるからと釘をさすと一時は声が止むが、しばらくするとまた話しはじめる。話題は変わっていない。

「うるさいってば」

 翠は顔を上げ、耐えきれないといった思いがそのまま声に出たのか、自分でコントロールしたよりも大きな声が出た。クラスメイトたち一斉にがふりかえり、翠は声のトーンを落とした。

「あのね、私はともかく、全然関係ない人間に自分たちのこと聞かれてる二人の気持ち考えなよ」

「聞かなきゃいいじゃん」

「聞こえるっつってんの。だいたい今授業中だし。そうやって日ごろから授業聞いてないから勉強がわからなくなるんじゃないの。そんなんだから、毎回テストの出来も、あんな感じなんじゃないの」

「は?」

 小声でありながら煽り立てるような翠の口調に、緋奈子が眉をひそめる。

「そんなくだらない話をわざわざ授業中にしてるくらいなら勉強しろって言ってんの」

「くだらないって……!」

 翠のひとことに緋奈子は声を荒げた。

「べつにさあ、遊びで話してるんじゃないんだよ。真剣に話してるの、こっちだって。ふざけて彼氏とか彼女とかやってる翠にはどうせわかんないだろうけど!」

 緋奈子が言い放った瞬間、翠は立ち上がった。ふたたびクラスメイトの視線が集まると同時に授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。翠は教室を出た。

(ああ)

 なんだか、このまえからぜんぶぐちゃぐちゃだ。

 黒田のこととか、紫に言われたこととか。前から思っていたり、気にしていたことではあったけど、彼らに言われたことで内に溜まっていた黒々としたものが噴き出してくるような感じがする。

 正直、将来とか結婚とか、そういう、先のことを考えたことはない。あまりにも遠い未来のことすぎて、考えがおよばないというのも理由のひとつではあるが。でも、朱音のことは好きだし、一緒にいたいし、大切にしたいと思う。それじゃいけないんだろうか。

 クラスのだれかと会いたくなくて、旧校舎側のトイレに入った。深いため息を吐く。クラスメイトと言い合いになろうがなんだろうが変わらず今日も六時間目まで授業はある。時間は進む。

 翠は立ち上がった。

「あ」

 トイレから出ると、ちょうど同じタイミングで男子トイレから白川が出てくるところだった。翠はぎこちなく一度合った目を逸らして、手洗い場の蛇口をひねった。

「…… 筒井さんらしくなかったね」

 白川がなにげない様子で口に出し、翠は

「私らしいって?」

とたずねた。白川はうーんと少しだけ悩むようなしぐさを見せつつ手の水気を切った。

「周りとちがっても、自分は自分って割り切って、だれよりも自分らしくあろうとしてた。…… でも今日は、クラスメイトを注意するっていうよりはまるで、なにかの腹いせに八つ当たりしてるみたいに見えたよ」

 なにかあった? とたずねてくる彼から、逃げるように視線を逸らしながら翠はハンドタオルで自分の手を拭いた。

「朱音とけんかした。それだけ」

 端的に言って、口を挟まれないうちに続ける。

「八つ当たりしたのは本当にそうだし、反省してるからあとで謝っておく。心配してくれてありがとう」

「ぜいたくだよね、筒井さんは」

 そのまま急いで立ち去ろうとすると、白川が翠の背中に投げかけた。ふいにかけられた言葉に思わず立ち止まった翠のそばを、

「ごめん、これも八つ当たりだね」

と言って白川は通り過ぎていった。

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