第10話

(四)

「―― で、この差をこっちの数で割って出てきた数字が、時差」

 黒田の日焼けした指が翠のノートの上をすべる。

「日本を基準にする場合、日本からこっち側なら時間が進んでることになって、反対側なら時間が遅れてるってことになる。―― どう、できそう?」

 説明を受けながら一緒に問題を解き、翠は自身のノートと答えとを照らし合わせた。正解だった。ぱっと顔を上げると嬉しそうな顔の黒田と目が合う。二人は微笑みあった。

「翠は理解が早いから、教えがいがあるよ」

 昼休みの図書室は人がまばらだが、来たる定期試験に向けての勉強をしているらしき人の姿もある。

「先輩の教え方が、すごく丁寧で上手だからですよ。…… 正直に言うと紫―― あ、姉の教え方だと、いまいち理解できなくて」

「まあ、そういうのは相性もあるからね」

 翠のやや愚痴っぽい言葉に黒田は笑って言った。

「でも、勉強教えてもらうんだ。仲良いんだね」

 黒田に言われて、翠はまあ、と複雑そうな顔をする。

「悪くはないと思うんですけど、でも、なんだか昨日は帰ってきてからずっと機嫌が悪くて」

「あー……」

 黒田がなにか知っているような顔をしたので、翠は問いかけた。

「なにかあったんですか?」

「いや、たいしたことじゃないよ」

 大丈夫、と黒田が言って、翠も姉の事情に深く介入する気もなかったので引き下がる。

「ていうか翠、わからないところがあるなら遠慮しないで聞いてくれたらよかったのに。俺、いつでも教えるよ」

 話を変えた黒田の言葉に、翠は苦笑いした。

「すみません。姉が先輩に余計な話をしたせいで、先輩の時間を取らせることになってしまって……」

「いやいや、俺、自分の勉強時間はちゃんと確保してるから、大丈夫だよ。それに翠は理解が早いから教えてて俺も楽しかったし」

「それは…… ありがとうございます。教えていただいて助かりました」

 頭を下げる翠に笑みを返して、黒田は図書室の時計に目をやった。昼休みが終わるまでまだ少しだけ時間がある。彼は視線をさまよわせつつ、ためらいがちに口を開いた。

「…… 空と筒井さん―― 翠のお姉さんも、仲良いよね。このまえクラスのやつに聞いてみたら小学校から仲良いんだって聞いて…… その、翠もさ、あの、空の妹と、小学校のときから仲良いの?」

「え?」

 突然変わった話題の意図が見えず、教科書類をまとめていた翠は思わず聞き返す。すると黒田はあわてた様子で言葉を重ねた。

「ほら、このまえ、生徒玄関で会ったときに一緒にいた子。クラスのやつらに聞いたら空の妹だってみんなが言うからさ、翠と話してたし、ふたり仲良いのかなーと思って」

「…… わ、わるくはないですが」

 翠はどういうわけか声がのどにはりつくのを感じながらおそるおそる口を開く。

「仲良くなったのもわりと最近で…… 朱音は、その、クラスでも社交的というか、だれとでも仲が良くて、人気者なので私にばかり構っていられるわけでは……」

「あ、じゃああんまりふたりで話したりとかはしないんだ?」

「…… そ、う…… ですね……。えっと、話すのはけっこう、学校よりは朱音の家だったりとか――」

「家行くんだ?」

 しまった。仲良いね、と畳みかけるように言われて翠は身をすくませた。なんだかすごくいやな予感がする。

「彼女さ、付き合ってる人とか、好きな人とかいるのかな」

「―― っど、どう、ですかね……?」

 まさか自分でストは言えずに翠はきょろきょろと不自然に目を泳がせた。

「あんまりそういう話しないから…… あ、でも今はいないとは、言ってたような気は……」

 もごもごと口にする最中、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。黒田は「そっかそっか」と軽い口調で言いながら立ち上がる。

「これくらい自分で聞けって話だよな。ごめんな、変な話して」

 やばい。

 やばい。


「やばいよ……」

 翠は朱音の部屋で頭を抱えながらつぶやいた。浮かない顔をした翠のテーブルをはさんで正面にいるのは、険しい顔つきで教科書を見つめる朱音だ。彼女はさっきから、ひとつの計算問題に対して数十分は向き合い続けている。

「先輩、絶対朱音のこと好きだよ……。なんであんなこと言っちゃったんだろ……」

 朱音が計算問題を解いている時間と同じくらい、翠は悩み続けていた。そんな姿にあきれたのか、朱音がため息交じりに顔を上げる。

「そんなに悩むんなら、翠が今すぐ先輩の家言ってはっきり言ってきたらいいでしょ? 田島朱音は自分と付き合っていてほかの人間に興味がないので先輩が告白しても付き合える確率は皆無ですって」

「そんな悪魔みたいなこと先輩に言えるはずないでしょ」

「隠れてこそこそ付き合いながらうわべだけ仲良くしてる方がよっぽど悪魔だと思うけど?」

 翠は言葉に詰まった。野球部唯一の女子である自分にも区別なく優しく話しかけてくれて、親切にしてくれた彼の屈託のない笑顔がよぎる。

「…… 朱音が、そのときにちゃんと断ってくれたらそれでいいじゃ――」

「いいわけないでしょ、なに言ってんの」

 きっぱり朱音が言い切って、翠はふたたび口をつぐむ。

「なに人に押しつけようとしてんの、翠がまいた種でしょ」

 まるで突き放すかのような朱音の態度に翠はむっと眉間にしわを寄せた。

「まいた種って…… 私、黒田先輩が朱音を好きになったことに関係ないじゃん、そもそも。巻き込まれてるのはこっちの方なのに……。だいたいさ、なにもないのに先輩が朱音のこと好きになるわけないんだし、朱音、先輩の気を引くようなこと、なんかしたんじゃないの?」

「なんかってなに」

「自分で考えてわからない?」

 今度は朱音がむっとくる番だった。

「なにもするわけないでしょ。あたしあの人と接点ないし、話したことすらないし――」

「話したことなくたって好きになることくらいあるでしょ」

 翠がそういうと、朱音は「へえ」と口にしてさらに不機嫌そうな顔になる。

「そうなんだ」

 朱音も翠も、もう教科書など見ていない。テーブルの上には開きっぱなしの教科書が置き去りにされている。

「話したことない人のこと好きになったことあるんだ」

「…………」

 怒っているというよりはどこかすねた様子の朱音の声に、翠はようやく気付いてあわてる。

「あ――、あるけど、いやあるっていうか」

「翠が男の子だったらよかったのに」

 ぼそりとひとりごとのように口にされた言葉はしかし、ふたりきりの部屋のなかではよく響いた。翠がなにも言い返せないでいるうちに、朱音がふたたび話し出す。

「翠が男の子だったら、こんな面倒くさいことにはならなかったし、そもそももっと堂々と彼氏ってみんなに言えてるし、そしたら告白なんてされてなかったかもしれないし」

「…… 本気で言ってんの?」

「だってそうでしょ」

 朱音の声はいつになく固くこわばっていて、普段の冗談交じりのような調子ではみじんもないことが翠にもわかった。

「翠は絶対あたしと付き合ってるってこと、周りに言ってなんかくれないし、あたしばっかり……」

「朱音がそこらじゅうで彼氏だなんだって言いふらして茶化すからでしょ」

「最初に言い出したのあたしじゃないし」

「乗っかってたらおなじでしょ」

 翠のきっぱりした態度に、朱音はややたじろいだ様子を見せる。

「―― それは、翠がクラスのだれとも仲良くしないからじゃん。ああやって話題に出さないと……。翠さ、みんなに陰でいろいろ言われてんの、知らないでしょ。ただでさえ翠、クラスで浮いてんのに」

「そんなことで他人のこととやかく言う方がどうかしてる。私はそんなの気にしない」

「あたしはいやなの」

 朱音の声は焦りに近いものに変わった。

「翠、もっとみんなと話しなよ。みんなだって話せば翠のいいところわかってくれるし、あたしたちがふたりで話してるときだってじろじろ見てくるやつもいなくなるよ」

「…………」

 翠は黙った。しばらく黙ったままうつむいているとふいに

「そっか。わかった。そういうことか」

と口にした。うつむいたまま突然放たれた言葉になにも言えないでいる朱音を前に、翠は続ける。

「朱音はさ、恥ずかしいと思ってるんでしょ、私のこと」

「…… そんなこと……」

「私と付き合ってることも、教室のなかで私と一緒にいるのも、本当はぜんぶ恥ずかしいんでしょ。人にさんざん言っておいてさ、恥ずかしがってるのは朱音の方じゃん」

 頭を殴られたようだった。思わぬ言葉だったはずなのに、いや、だからこそか、返す言葉が出てこない。朱音が黙っていると、翠はしびれを切らしたように「もういい」と言って立ち上がった。そしてそのまま、教科書類をまとめると部屋を出ていってしまった。ばたんと扉が閉じる音で、朱音ははっとしてふりかえる。

「み……」

 しかしもう時は遅い。さっきまで翠が座っていた場所は、ぽっかりと穴が空いているかのように見えた。朱音はゆっくりとベッドまで歩いて、そこへどさりと倒れこんだ。翠とけんかするのは、さしてめずらしいことではない。

『朱音はさ、恥ずかしいと思ってるんでしょ、私のこと』

 恥ずかしい? なにが? と、そう知らぬ顔で堂々と聞けたならよかった。

 彼氏、などという単語が初めに出たのは、朱音が翠と一緒にいるようになってすぐだった。

『最近、ずっと一緒にいるよね』

『なんか付き合ってるみたいだよね』

 発端は、だれかがなにげなく言ったひとことだ。

『蒼汰と別れて朱音と付き合ってるの?』

『シュミ急に変わりすぎ』

 あきらかにその場だけの暇つぶしの冗談で、朱音も笑って流そうとした、そのときだった。

『だったらなに』

 冗談が通じていないのか、翠は教室の椅子に座ったままの状態で、絡んできた彼女たちをにらみあげていた。いかにも不機嫌そうだ。彼女はそんな翠にやや怯みつつも「いや」と続ける。

『どっちが彼氏なのかなあと思ってさ』

『そりゃ翠でしょ』

 彼女らが笑い出すと、翠は荒々しく音を立てて席を立った。

『ばからしい……。朱音、帰ろう』

 コートとランドセルをひっつかんで教室を飛び出す翠を、朱音は慌てて追う。

『翠っ』

 早足で生徒玄関の方に向かう背中に呼びかけるも彼女はかまわず進んでいく。翠の足が止まったのは、ふたりが玄関にたどり着いてからだった。

『あ……』

 玄関でようやく足を止めた翠は、外の景色を見ながらぼう然と立ちつくしていた。

『傘、教室に忘れてきた……』

 翠が見つめる先では、雪がしんしんと降り続け、地面に白を積み重ねている。勢いよく飛び出してきてさすがに今から取りに戻るわけにもいかないと思ったのか途方に暮れたように言う彼女がおかしくて、朱音が思わず噴き出すと、翠はじろりとこちらをにらんだ。なにか毒づいてくるかと思ったが、彼女はそのまま無言でランドセルを床に下ろして腕に抱えたままだったコートを羽織った。

『取りに戻んないの?』

 朱音も同じようにランドセルを下ろしてコートを羽織りながら聞けば、いい、と短い答えが返ってくる。

『雪だし…… 明日もどうせ雪でしょ』

 ランドセルを背負いながら翠は言うと、ちらと朱音に視線をよこした。待っていてくれるつもりらしい。初めは素っ気なかった彼女がそんなそぶりを見せてくれたのが嬉しくて小走りで駆け寄ると同時に翠の口が開く。

『わかんないんだよ、ああいうひとたちには。ああいうひとたちは自分の周りが世界のすべてだと思っているし、実際そうなんだろうし、自分と違うひとがいるとはまさか思ってないんだよ。だからああいう、人が傷つくことが平気で言える』

 玄関前の階段が、雪に埋め尽くされてほとんど坂になっていた。一部は雪かきがされて、かろうじて階段の形を保ってはいるが、水分を含んでいる雪のせいで滑りやすくなっている。翠はショートブーツの底で探るように足をつけ、慎重に歩を進めた。

『わかってもらえないなら、やっぱり説明してわかってもらうしか、ないと思うけど。…… 翠だって、傷ついたなら傷ついたって言わないとわかってもらえるものもわかってもらえないんじゃないの』

 翠は返事をしない。彼女のショートブーツの底が、雪のなかに沈んでは跡をつけていく。

『…… 朱音はすごいね』

 そう言って先を行く翠の背中が、やけにちいさく見えたのを覚えている。


 朱音は枕に顔を埋めたまま、枕をぎゅうとにぎりしめた。いつから出ているのか、熱を持った液体が顔の皮膚を伝っていくのがわかる。朱音は外に出そうになった鼻水をすすりながら、なにかをこらえるように枕のなかでうー、とうめいた。

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